伝記
アウンサンは、1915年2月13日、ビルマ中部の町に、6人兄弟の末っ子として生まれた。ビルマの独立運動家であり、軍人、政治家である。日本名は面田紋次という。父ウー・パは農家出身の弁護士でほとんど仕事がなく、母ドー・スーが家族を養った。明朗で繊細、正直で弱者への同情心に富んだ子で、甘えん坊のため8歳まで学校へ行かず、僧院学校で読み書きを学んだ。13歳で兄が教師をしていた民族学校に転校し、学業は優秀で、15歳で奨学金を取り、高校入学前の国家試験では全国1位になった。高校時代に政治に目覚めた。
1933年にラングーン大学に進み、英文学、近代史、政治学を専攻した。大変な読書家で、英雄はリンカーンとメキシコの民族主義指導者フアレスだった。1936年2月、学長を批判するエッセイの筆者の正体を隠し通したため、3年間の停学処分を受けた。第二次学生ストライキが起こり、大学は処分を取り消した。1938年には学生組合と全ビルマ学生連合の議長に選ばれ、学生界の指導者となった。同年に大学を卒業して文学士号を受けると、法科大学院に進んだが、10月にウー・ヌとともにタキン党に勧誘されて大学を中退し、専従党員となった。11月には書記長に選ばれ、党のナンバー2となった。1939年8月にビルマ共産党が結成されたときには、結党メンバー7人の一人として書記長に就いたが、共産主義にのめり込むことはなかった。1940年には自由ブロックの書記長となり、独立が保証されない限りイギリスの戦争に協力しない運動を進めたが、逮捕状が出て潜伏した。
1940年8月、中国共産党との接触を図るため、中国人苦力に変装して船でビルマを脱出し、厦門で日本軍の憲兵に発見されて東京に連れていかれた。鈴木敬司大佐に引き合わされ、日本軍に協力するよう要請された。日中戦争での日本の蛮行を知って躊躇したが、日本軍のビルマ侵攻に協力する代わりに、日本が独立を約束することで合意した。1941年2月に南機関が発足し、のちに「30人の同志」と呼ばれる若者を募り、海南島で4か月の軍事訓練を受けた。1941年12月28日、バンコクでビルマ独立義勇軍が創設され、少将の地位を与えられた。1942年1月に日本軍がビルマに侵攻し、3月に首都ラングーンを占領した。同年9月6日、入院中に看病してくれた看護婦キンチーと、出会って2か月で結婚した。1943年3月に再来日し、8月にビルマ国が樹立されると、国防大臣と国民軍の最高司令官に就いた。しかしビルマ国は日本の傀儡政権だとすぐに気づき、密かに抗日闘争の準備を進めた。
1944年8月に反ファシスト機構を結成し、1945年3月27日、日本軍への全面攻撃を開始した。5月1日にラングーンを解放し、5月16日にはイギリス軍司令官スリム将軍を訪ね、日本軍を放逐した後は独立する意思だと告げた。戦後は軍を去り、1946年8月にランス総督のもとで行政参事会の国防大臣などを兼ね、実質アウンサン内閣が成立した。1947年1月27日にアトリー首相とアウンサン=アトリー協定を結び、1年以内の独立が確認された。2月には少数民族代表とパンロン合意を結び、全ビルマが一つの連邦国家として独立することで各代表の同意を得た。4月の選挙で反ファシスト人民自由連盟は182議席中171議席を得て大勝した。1947年7月19日に亡くなった。娘のアウンサンスーチーは、のちに国家顧問として実質的な国家指導者となった。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・ヴァイト (1947年没)
- ピエール・ジャネ (1947年没)
- アルベール・マルケ (1947年没)
- マリーア・インマコラータ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1874-1947) (1947年没)
- マックス・プランク (1947年没)
同じ地域に関係する人物
- バハードゥル・シャー2世 (1862年没)
- フェリペ・デ・ブリト (1613年没)
- バー・モウ (1977年没)
- マハーシ・サヤドー (1982年没)
- バー・ウ (1963年没)