HISTORICAL PERSON · 1947年没

ニコライ・リョーリフ

ドイツ系ロシア人の画家。ストラヴィンスキーの『春の祭典』の着想や舞台デザインに関わった美術家として知られ、世界各地を流浪した。

生涯
1947年没
死亡地
インド(ヒマーチャル・プラデーシュ州 / クール (インド))
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
インド(ヒマーチャル・プラデーシュ州)

伝記

ニコライ・コンスタンティノヴィチ・リョーリフは、1874年10月9日にサンクトペテルブルクで生まれた画家である。裕福な公証人の家庭に育った。父はスウェーデン系とラトビア系の血を引くバルト・ドイツ人、母はテュルク系のタタール・ロシア人とされ、ドイツ語名ではニコライ・レーリヒと呼ばれることも多い。美術界と法曹界の双方で訓練を積み、文学や哲学、考古学にも関心を寄せた知識人でもあった。風景画家アルヒープ・クインジに学び、青年時代にウクライナの文化と深く結びついたことから、タラス・シェフチェンコやゴーゴリらの影響を受けた。愛読書はシェフチェンコの詩集『コブザール』で、本人もそれを認めている。最初に通った絵画教室は、シェフチェンコが学んだのと同じ教室だったという。1903年から1906年にかけてキエフでスケッチを描き、1910年にはペチャルシク・ラヴラ地区のトロイツキー大聖堂のためにモザイクも制作した。

一般には、ストラヴィンスキーの《春の祭典》の着想や構想、舞台デザインに関わった美術家として知られる。古代の異教時代のルーシを題材とするこの作品では、デザインがあまりに革新的で大きな反響を呼んだ。1913年のパリ初演は賛否が割れて大騒動となり、音楽史上の画期的な事件になったが、成功にせよ醜聞にせよ、ストラヴィンスキーの音楽やニジンスキーの振付けとともに、リョーリフのデザインが重要な要素だったとされる。73年の生涯のうち、42年間をサンクトペテルブルクで暮らした。

1920年に初めてニューヨークを訪れ、夫妻でアメリカ各地を巡ったのち、同市に居を構えて美術学校を設立した。渡米後は英語風にニコラスと名乗っている。さまざまな神智学協会に加わるうちに、美術活動よりも宗教活動が一家の生活の中心となり、妻のエレーナとともに神智学の導師として活動し、共同でアグニ・ヨーガ協会を設立した。やがてニューヨークを離れ、長男ジョージと友人6人を伴い、5年計画でアジア探検に出発した。シッキムに始まり、パンジャーブやラダック、ホータン、カシュガル、ウルムチ、アルタイ山脈、ゴビ、甘粛省、ツァイダム盆地を経てチベットへ向かう旅程だった。ところが一行はチベット政府に5か月間拘束され、1927年夏ごろから1928年6月までの約1年間は行方不明となった。わずかな配給食糧と氷点下のテント暮らしを強いられ、5人が亡くなった。1928年春にチベットからの退去を許され、南へ歩いてインドのヒマラヤ研究所の職員に保護された。

1929年にはパリ大学からノーベル平和賞候補に推薦され、1935年にも再び推薦を受けた。芸術と文化の「国際赤十字」を目標に掲げて団体を創設し、この文化保全の活動を通じて、1935年4月15日にホワイトハウスで、アメリカ合衆国と米州の20か国による国際文化財保護条約の調印へ導いた。条約の象徴「平和の旗」は、円の内側の三つの赤い丸が過去・現在・未来、あるいは芸術・科学・宗教を表すとされる。1934年5月には息子ジョージと日本を訪れ、講演も行った。

世界各地を流浪する生涯を送った末に、インドのパンジャブで最期を迎え、1947年12月13日に没した。息子ジョージはチベット学者に、孫は画家・建築家になった。作品の多くはニューヨークのニコライ・リョーリフ美術館に収められ、モスクワの国立東洋芸術美術館やサンクトペテルブルクのロシア美術館などにも所蔵されている。

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