伝記
クルト・レヴィンは、1890年9月9日、当時プロイセン王国のポーゼン州にあったモギルノで、ユダヤ系の中流家庭の子として生まれたドイツ出身の心理学者である。町は人口5,000人ほどの小さな町で、ユダヤ人は約150人だった。四人の子の一人で、父レオポルドは雑貨店を営み、一家は店の上階に住んでいた。父は弟のマックスと共同で農場も経営していたが、当時ユダヤ人は農場を所有できず、名義上の持ち主はキリスト教徒だったという。レヴィンは家庭で正統派ユダヤ教の教育を受けた。子どもたちによりよい教育を受けさせようと、1905年に一家はベルリンへ移り、レヴィンは1908年までカイゼリン・アウグスタ・ギムナジウムで古典的な人文教育を受けた。
1909年にフライブルク大学の医学部に入ったが、生物学を学ぶためミュンヘン大学に移り、その頃に社会主義運動や女性の権利運動に関わるようになった。1910年4月にはベルリン大学に移った。医学生ではあったものの、関心は哲学と心理学へ向かい、1911年夏までには受講する講義の大半が心理学になった。カール・シュトゥンプの講義も14コース受けている。第一次世界大戦ではドイツ軍に従軍して戦傷を負い、ベルリンに戻ってシュトゥンプのもとで博士論文を完成させた。主題は連合、意志、意図で、シュトゥンプとはあまり交流がなく、最終試験になって初めてその内容を話したとされる。
もとは行動主義的な心理学の流れに関わっていたが、やがてマックス・ヴェルトハイマーやヴォルフガング・ケーラーらゲシュタルト心理学者と研究を共にするようになった。ベルリン大学では心理学研究所に加わって哲学と心理学を講じ、1926年から教授として緊張や欲求、動機づけ、学習についての実験を行った。ゲシュタルト心理学を社会心理学に応用し、トポロジー心理学を提唱した。1933年にヒトラーが政権を握るとユダヤ人学者は大学から追われ、レヴィンもイギリス経由でアメリカへ移った。ロンドンではタヴィストック・クリニックのエリック・トリストと会い、トリストはその理論に感銘を受けて、のちに第二次世界大戦中の兵士の研究に用いた。1933年8月にアメリカに渡り、1940年に市民権を得た。
渡米後はコーネル大学やアイオワ大学で研究を続け、のちマサチューセッツ工科大学にグループダイナミクス研究所を創設して所長を務めた。専制型・民主型・放任型というリーダーシップのスタイルとその影響の研究、集団での意思決定の研究、場の理論、変革マネジメントの「解凍―変化―再凍結」モデル、「アクション・リサーチ」、Tグループなどの訓練方法と、業績は多方面にわたる。ツァイガルニク効果の研究や「境界人」の概念でも知られ、「社会心理学の父」と呼ばれる。アイオワ大学の博士課程ではレオン・フェスティンガーらを指導した。第二次世界大戦後には、ハーヴァード医学校のジェイコブ・ファイン博士とともに、難民収容所にいた人々の心理的な回復にも関わった。渡米後しばらくして、自分の名前を英語風に「ルーイン」と発音してほしいと周囲に頼んだことがある。アメリカ人の誤った発音のせいで電話の取り次ぎがたびたび失敗したためだが、亡くなる少し前には、本来の「レヴィーン」を使ってほしいと学生や同僚に求めるようになったという。
1947年2月12日、マサチューセッツ州ニュートンビルで心臓発作のため亡くなった。
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