伝記
マリア・デ・ナバラは、アラゴン王ペドロ4世の最初の王妃である。1329年または1330年に、ナバラ女王フアナ2世と、その夫で共同統治者となったフェリペ3世(エヴルー伯フィリップ)の娘として生まれた。フランス名はマリー・ド・ナヴァール、またはマリー・デヴルーという。母方の祖父はフランス王ルイ10世で、のちのナバラ王カルロス2世は弟にあたる。
両親はエヴルー家をナバラ王国の新しい王家として確立し、それまでフランスの政局に引きずられがちだったナバラの政策を改めて、イベリア半島の隣国との関係を深めようとしていた。1333年には、マリアの姉フアナと、当時アラゴンの王太子だったペドロとの婚約が話し合われた。ところが1336年1月にペドロが王位に就くと、彼は妹のマリアのほうを望んだ。このためフアナは継承権を手放して、それをマリアに譲らなければならなかった。1336年1月6日には、父の城であるアネの城で婚姻契約が結ばれた。契約には、母が男子を残さずに死んだ場合、マリアかその子がナバラの王冠を継ぐという取り決めが含まれていた。
結婚式は1337年または1338年の7月25日に、サラゴサ近郊で挙げられた。持参金の支払いをめぐっては難しい問題もあったが、ペドロとマリアの両親との関係は良好だったという。マリアは夫から、ハカやテルエルなどの町を寡婦資産として与えられた。1338年には新しい王妃としてバルセロナに華やかな入城を果たしている。王妃は信心深く、夫に従順だったが、夫とは共通するものが少なかったとみられる。
子は1343年から生まれ、長女コンスタンサ(1343年生まれ、1363年没)、次女フアナ(1344年生まれ)、そして三女のマリアが生まれた。コンスタンサは1361年にシチリア王フェデリーコ3世と結婚し、フアナは1373年にアンプリアス伯ジャウマ1世と結婚した。三女のマリアは1345年ごろの生まれともされ、早世した。結婚から9年のあいだ男子が生まれなかったことは問題になっていた。1347年にペドロは長女に継承権を確保しようとしたが、弟のウルヘル伯ジャウマと、アラゴンの議会がこれに反対した。
1347年4月、王妃はバレンシアで男子を産んだ。男子はペドロと名づけられたが、洗礼を受けた日、または翌日に死んだ。王妃自身も出産に伴う産褥熱ともいわれる合併症のため、4月に18歳ほどで世を去った。遺言では、ナバラに対する自分の権利をまず息子に、次に娘たちに残し、ポブレー修道院に葬られることを望んだ。しかし遺体はバレンシアの聖ビセンテ修道院に葬られたとも、ポブレー修道院に葬られたともいわれる。夫は数か月のうちに、ポルトガル出身のレオノールと再婚し、ペドロ4世は生涯で4人の妻を持った。
同じ年に亡くなった人物
- ジャンヌ3世 (ブルゴーニュ女伯) (1347年没)
- ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝) (1347年没)
- Al-Mudhaffar Hajji (1347年没)
- Sang Nila Utama (1347年)
- オッカムのウィリアム (1347年没)
同じ地域に関係する人物
- イブン・ハファージャ (1138年没)
- ジャコモ・ラウリ=ヴォルピ (1979年没)
- ルイ・ベルトラン (1581年没)
- ジェルメーヌ・ド・フォワ (1538年没)
- フランシスコ・ハビエル・デ・エリオ (1822年没)