伝記
ユースフ1世は、1318年6月29日に生まれ、1354年10月19日に没した、第7代のナスル朝グラナダ王国の君主である。本名はアブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイールといい、尊称(ラカブ)をアル=ムアイヤド・ビッ=ラーフ、「神の救済を得る者」と称した。在位は1333年8月26日から亡くなるまでである。
ユースフは、グラナダのアルハンブラ宮殿でスルターンのイスマーイール1世の三男として生まれた。母バハールはキリスト教国出身の内妻で、彼女が産んだ子はユースフただ一人であった。のちに宰相を務める歴史家イブン・アル=ハティーブは、この母を「品行が良く、高潔であり、落ち着いた性格の貴婦人」と評し、若いユースフについても、立派な容姿と優れた性格をそなえ、優雅な衣装を好み、芸術や建築に関心があり、武器を集めたと述べている。1325年にイスマーイール1世が暗殺されると、10歳の兄ムハンマド4世が後を継いだ。ムハンマド4世は、ジブラルタルを囲んだカスティーリャ軍をマリーン朝と協力して退け、講和条約を結んだ翌日、1333年8月25日に暗殺された。実行したのはザイヤーンという奴隷で、指示したのはアビー・アル=ウラー家の兄弟だったという。
兄の死の翌日、ユースフはスルターンに宣言された。わずか15歳であり、当初は未成年者として扱われ、祖母ファーティマや侍従リドワーンらが統治権の一部を行使した。イブン・アル=ハティーブによれば、ユースフの権限は「自分の食卓から食べるものを選ぶ」ことに限られていたという。1334年2月26日、ナスル朝はフェズでカスティーリャ、マリーン朝と4年の期限の条約を結び、5月にはアラゴンも加わった。この条約には、ナスル朝からカスティーリャへの貢納金の支払いが含まれていなかった。その後ユースフは、兄の暗殺を主導したアビー・アル=ウラー家を、1338年か1340年に追放した。
講和の期限が切れると、マリーン朝がカスティーリャ領を襲って戦争が再開された。1340年4月にはアルヘシラス沖でナスル朝とマリーン朝の艦隊がカスティーリャ艦隊に勝ったが、同年10月30日の戦いで連合軍は決定的に敗れ、ナスル朝はアルカラ・デ・ベンサイデなどの都市や要塞を奪われた。1342年にカスティーリャ王アルフォンソ11世が港湾都市アルヘシラスを包囲すると、ユースフは陽動攻撃を加えつつ救援に向かったが、1344年3月に10年間の和平と引き換えに無血開城を余儀なくされた。1349年にアルフォンソ11世が和約を破ってジブラルタルを包囲すると、ユースフは反撃を指揮したが、1350年3月に王が黒死病で死んで包囲は解けた。その後は王の息子ペドロ1世と条約を結び、カスティーリャの反乱の鎮圧に軍を送った。一方、マリーン朝のスルターンと対立したその兄弟を保護したため、マリーン朝との関係は悪化した。1354年10月19日、イード・アル=フィトルの日にグラナダの大モスクで祈っていたところを、一人の狂人に暗殺された。
領土は失ったが、ユースフの治世に、ナスル朝は建築と文化の繁栄期を迎えた。グラナダに高等教育機関が設立され、アルハンブラ宮殿ではコマレス宮の増築を含む多くの建造物が建てられた。多くの歴史家は、ユースフ1世と息子の治世をナスル朝の全盛期とみなしている。
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