伝記
マッテーオ2世・ヴィスコンティは、1319年ごろに生まれ、1355年9月29日に没したミラノの共同領主である。弟のガレアッツォ2世、ベルナボとともにミラノを治めた。没日は9月9日とする記述もある。父はステーファノ・ヴィスコンティ(1327年没)、母はジェノヴァ出身のヴァレンティーナ・ドーリアで、その長男であった。ステーファノは領主マッテーオ1世の五男にあたり、マッテーオ2世ら3兄弟は、叔父ガレアッツォ1世、従兄アッツォーネ、さらに叔父のルキーノとジョヴァンニという歴代のミラノの支配者が相次いで世を去ったのちに、一族の最後の嫡出の男子として残った。
1340年7月、マッテーオは兄弟とともに、フランチェスコ・プステルラら数人の貴族が、叔父のジョヴァンニとルキーノに対して企てた陰謀に加わった。陰謀は密告されてルキーノが陰謀者たちを罰したが、甥たちは罰しなかった。1341年か1342年ごろにはレッジョ・エミリアの帝国代理官フィリッピーノの娘ジリオーラ・ゴンザーガと結婚した。2人のあいだには、カテリーナとアンドレオーラの2人の娘が生まれた。1346年に新たな陰謀があり、マッテーオは兄弟とともにルキーノによってモンフェッラートへ追放され、ポー川沿いのモラーノに移った。
1350年にルキーノが亡くなると、跡を継いだ大司教の叔父ジョヴァンニに兄弟とともにミラノへ呼び戻され、後継者と認められた。1354年にジョヴァンニが亡くなると、3人の甥が共同領主となって領地を分けた。マッテーオが得たのはローディ、ピアチェンツァ、パルマ、ボローニャ、さらにポントレモリ、モンツァ、サン・ドンニーノであった。ガレアッツォ2世はパヴィーアやコモなど、ベルナボはベルガモやブレーシャなどを治めた。ボローニャでは、功績の恩賞として統治を得ていたジョヴァンニ・ヴィスコンティ・ダ・オレッジョが独立を宣言した。マッテーオは教皇に抗議するにとどめたが、末弟のベルナボはボローニャへの反乱を呼びかけた。妻ジリオーラは1354年に亡くなった。
マッテーオは3人の共同領主のなかで、あまりに協調的で、3人の体制のなかでは足手まといとみなされていた。1355年、モンツァでの狩りの帰りに食事をしたあと、ひどい腹痛に襲われ、ミラノに運ばれたが、医師たちはなすすべなく、息を引き取った。没した地はサロンノともいわれる。母ヴァレンティーナは遺言で、マッテーオは兄弟に殺されたと確信していると記した。その領地は2人の弟が分け、ガレアッツォが西を、ベルナボが東を取ったとされる。娘カテリーナは、生まれてすぐエステ家のベルトルドと婚約したがベルトルドは1343年に没し、1358年にウゴリーノ・ゴンザーガと、のちにフェルトリーノ・ゴンザーガと結婚した。アンドレオーラは女子修道院長となった。
同じ年に亡くなった人物
- エリナー・オブ・ウッドストック (1355年没)
- Michael of Trebizond (1355年)
- ルドヴィーコ (シチリア王) (1355年没)
- ジャン3世 (ブラバント公) (1355年没)
- マリーノ・ファリエロ (1355年没)
同じ地域に関係する人物
- Antonio Vojak (1975年没)
- エンリコ・バイ (2003年没)
- カルロ・マリア・マルティーニ (2012年没)
- エルコレ・デンボウスキー (1881年没)
- フランチェスコ3世・デステ (1780年没)