伝記
ルートヴィヒ5世は、14世紀の上バイエルン公(在位1349年〜1361年)で、ブランデンブルク辺境伯(在位1323年〜1351年)とチロル伯(在位1342年〜1361年)も兼ねた。1315年、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と、ヤヴォル公ボルコ1世の娘ベアトリチェの長男として生まれた。同母弟にシュテファン2世、異母弟にルートヴィヒ6世、ヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世、オットー5世がいる。
1323年、8歳で父からブランデンブルク辺境伯領を譲られた。幼い辺境伯は、ヘンネベルク伯ベルトルト7世の後見を受けた。1324年にはデンマーク王クリストファ2世の長女マルガレーテと結婚し、長女エリーザベト(1326年〜1345年)が生まれたが、ブランデンブルクでのヴィッテルスバッハ家の支配は、あまり民衆の支持を得られなかった。1336年にはドイツ騎士団とともにリトアニアへ十字軍に加わっている。1338年、ポンメルン諸侯と講和した。1340年に妻マルガレーテが亡くなると、1342年2月10日、チロルの女伯マルガレーテと再婚して領地の獲得を図った。ケルンテン公ハインリヒ6世の一人娘で、先夫ヨハン・ハインリヒとの離婚が済む前の結婚だったともいわれる。皇帝ルートヴィヒ4世はこれを学者のオッカムやマルシリウスに擁護させたが、教皇クレメンス6世は夫妻をただちに破門し、ヨーロッパ中に知れ渡る醜聞となった。この領土拡大政策は諸侯の反発も招き、1346年にはカール4世が対立王に擁立された。
1347年に父が亡くなると、破門を受けて自ら王位を求められないルートヴィヒは、義兄のマイセン辺境伯フリードリヒ2世をローマ王に推戴しようとしたが、拒否された。同年、カール4世によるチロルへの攻撃は退けた。1348年にはイングランド王エドワード3世を担ぎ出し、1月10日に選ばれたが、4か月で辞退した。1349年にはギュンター・フォン・シュヴァルツブルクを対立王に擁立したが、ギュンターはすぐに退位した。それでもルートヴィヒはカール4世によく抵抗し、すべての領地をヴィッテルスバッハ家のために守り通したという。1349年9月12日、5人の弟と父の遺領を分割し、ルートヴィヒ5世は上バイエルンを異母弟のルートヴィヒ6世、オットー5世と共同統治することになった。下バイエルンは、同母弟のシュテファン2世と、異母弟のヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世が治めた。
1351年、ブランデンブルク辺境伯領をルートヴィヒ6世に譲り、引き換えに上バイエルンはルートヴィヒ5世の単独統治となった。オットー5世も所領を譲った。オーストリア公アルブレヒト2世の尽力により、1359年に破門が解かれた。ルートヴィヒは1361年9月18日、46歳で亡くなった。
マルガレーテとの間には、ヘルマン(1343年〜1360年)とマインハルト(1344年〜1363年)が生まれ、ほかに2人の娘がいたが夭折したようである。遺領は子のマインハルトに相続されたが、彼も1363年に夭折し、オーストリア公ルドルフ4世(アルブレヒト2世の子)とシュテファン2世が領土をめぐって争うことになった。
同じ年に亡くなった人物
- ガジャ・マダ (1361年没)
- インゲビョルグ・アヴ・ノルゲ (1361年没)
- フィリップ・ド・ヴィトリー (1361年)
- ジョヴァンニ・ドルフィン (1361年)
- ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公) (1361年没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ (1756年没)
- ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー (1826年没)
- フランツ・フォン・シュトゥック (1928年没)
- フランク・ヴェーデキント (1918年没)
- マリア・ライター (1992年没)