HISTORICAL PERSON · 1361年没

ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)

初代ランカスター公。百年戦争やスコットランド戦争で戦功を挙げ、外交使節も務めた『セインツ・メディシネスの書』の著者。

生涯
1361年没
死亡地
イギリス連邦(レスター / レスター城)
出生地
イギリス連邦(グロスモント)
出典
世界地図
イギリス連邦(レスター)

伝記

ヘンリー・オブ・グロスモントは、初代ランカスター公となったイングランドの貴族である。1310年頃、ヘンリー3世の孫である第3代ランカスター伯ヘンリーの長男として、ウェールズのグロスモント城で生まれたとされる。生涯を通じて軍人、外交官、著述家であり、イングランドでも指折りの富裕な領主で、国王エドワード3世の親しい側近でもあった。

少年期は、一族の政治的な混乱のなかで過ぎた。伯父の第2代ランカスター伯トマスは、1321年にロジャー・モーティマーらとともに、国王エドワード2世の寵臣デスペンサー一族に対する反乱の先頭に立ったが、ボローブリッジの戦いで敗れて捕らえられ、国王の命で処刑された。のちに父も、モーティマーとフランス王女イザベルに対して反旗を翻した。こうした争いと所領の没収のため、遺産はわずかしか残らず、病身の父に代わって公務を務めながら、少しずつ家督を受け継いだ。一方でエドワード3世とは極めて親しく、国王の親政の始まりとともに恩顧を取り戻した。若いころの自身は、剣や狩りなど武芸のほうが学問より得意だったと、のちの著作で認めている。トリスタンとイゾルデの像と愛の像という金の像を2体持っていたことから、宮廷風の恋愛物語にも関心があったと考えられる。

1337年3月16日にダービー伯に叙され、同じ頃、初代ボーモント男爵ヘンリーの娘イザベルと結婚した。スコットランド戦争や百年戦争の初期の戦いに、軍事と資金の両面で加わり、1343年には教皇とカスティーリャ王国への使節を務めた。1345年9月に父が亡くなり、第4代ランカスター伯と第4代レスター伯を継いだ。1348年にガーター騎士団が創設されると、最初のメンバーの一人となった。伯母アリス・ド・レイシー(伯父トマスの妻)からリンカーン伯領も継ぎ、1349年8月20日にリンカーン伯に叙された。その戦功により、1351年3月6日にはランカスター公に叙された。1331年創設のコーンウォール公位に続く2度目の公爵位の創設で、当時としては例外的な名誉だった。1350年代の前半は各地を旅して過ごし、その一部は外交のためだった。1354年にはナバラ王国への使節を務めた。

1356年にはノルマンディーでの騎行作戦に加わり、ブルターニュにも赴いた。1360年のブレティニー条約の締結には、イングランド側の代表として大きく貢献した。1361年3月24日、条約の発効後まもなく、おそらくペストのため亡くなった。

娘が2人あり、長女モード(1339年〜1362年)はバイエルン公ヴィルヘルム1世と結婚したが子はなく、1362年に亡くなった。次女ブランシュ(1345年〜1369年)はエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントと結婚し、のちのヘンリー4世を産んだ。このため、ランカスター伯位、レスター伯位、ダービー伯位と所領は、ブランシュを通じてジョンに継承された。ヘンリーは、宗教書『セインツ・メディシネスの書』の著者としても知られている。信仰を寓意で説くこの書は、フランス語の一方言であるアングロ・ノルマン語で書かれたが、文字を書くのを覚えたのは人生の後半で、フランス語は不得手だと本人は語っている。

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