伝記
アンドレ・ジッドは、1869年11月22日にパリで生まれたフランスの小説家である。アンドレ・ジイドとも表記される。『新フランス評論』創刊者の一人で、半世紀以上書き継がれた『日記』はフランスの日記文学を代表する作品とされる。人間の自由とキリスト教的モラルの対立を主題にした小説を多く書き、その根底には、幼時に受けた厳格な宗教教育と性的な欲求の矛盾があるという。父はプロテスタントの家系の出でパリ大学の法学部教授を務め、母は北仏ルーアンの裕福な織物業者の娘だった。叔父は経済学者のシャルル・ジッドである。6歳頃から習い始めたピアノは生涯の趣味となった。
病弱で、品行不良のために停学になるなど、学校生活は安定しなかった。11歳で父を亡くしてからは、母、伯母、家庭教師に育てられ、療養のために各地を転々とした。17歳でアルザス学院の修辞クラスに入ってピエール・ルイスと知り合い、文学を通じた友情で結ばれた。1888年にアンリ4世校へ転じ、バカロレアに合格したが、文学に専念するため大学進学はやめた。1890年にルイスを通じてポール・ヴァレリーと知り合い、母方の従姉マドレーヌへの思いを主題にした『アンドレ・ワルテルの手記』を翌年自費出版した。この作品はマラルメから絶賛され、彼は「火曜会」に出入りするようになった。
1893年に親友とアルジェリアやチュニジアを旅行し、以後たびたび北アフリカに赴いた。オスカー・ワイルドらと会い、娼婦との交流や同性愛も経験したという。この体験は、キリスト教的な束縛から離れる文学者としての転機になった。1895年にマドレーヌと結婚し、同年の『パリュード』で象徴主義と実質的に決別した。1897年の『地の糧』は出版当時ほとんど話題にならなかったが、20年後に新しい青年層に注目された。1902年の『背徳者』は、既成道徳に背を向ける男の悲劇を描く。1909年には再刊した『新フランス評論』に『狭き門』を連載して一般読者にも評価され、『田園交響楽』も書いた。1914年の『法王庁の抜け穴』では、動機のない殺人を実行する主人公を登場させた。1926年の『贋金つくり』は、彼が唯一「ロマン」と認めた代表作で、後のヌーヴォー・ロマンの作家たちに大きな影響を与えたといわれる。
私生活では、マドレーヌを愛しながら性的な関係を持たない「白い結婚」だったとされ、1917年頃に若いマルク・アレグレと関係を持つと、結婚生活は破綻に向かったと言われる。1923年にはエリザベート・ヴァン・リセルベルグとの間に娘カトリーヌをもうけた。自伝『一粒の麦もし死なずば』で、自らの同性愛的な性向を公にした。
1925年から1926年にかけてはフランス領コンゴなどを調査し、黒人たちの悲惨な境遇や大規模な利権会社による虐待に衝撃を受けた。『コンゴ紀行』は植民地支配の体制そのものを否定するものではなかったが、代議院で論争が起こるきっかけとなった。1930年代には共産主義への共感を表明し、ヒトラーの権力掌握後は反ファシズム運動を象徴する存在の一人となったが、のちに『ソヴィエト旅行記』でスターリン体制の実態を批判し、各国のソ連支持者から強く批判された。1951年2月19日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・グラント・エイトケン (1951年没)
- トム・カイリー (1951年没)
- 金東仁 (1951年没)
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- ヴィルヘルム・ビヤークネス (1951年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャン=アンリ・ダングルベール (1691年没)
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- レミ・ド・グールモン (1915年没)
- フランソワ=ジョセフ・ゴセック (1829年没)