伝記
イブン・シャーティルは、14世紀のムスリムの天文学者である。1305年前後にダマスクスで生まれ、1375年前後に同じ町で没した。生年については、イスラム暦704年第1ラビー月13日(西暦1304年10月13日)とする説が多数を占める。一方、同時代の年代記作家が、本人から705年シャアバーン月15日(1306年3月1日)と聞いたと書き残しているともいう。通称のイブン・シャーティルのほか、本名はアリー、父の名はイブラーヒームといい、アラーウッディーンの尊号と、時守を意味するムワッキトの職名を持った。アブル・ハサンの名でも知られる。6歳のときに父が亡くなり、祖父に育てられたと伝わる。祖父は孫に象牙細工を教え、そこから象牙細工師を意味するムタッイムの尊号も付いた。10歳のころ、エジプトのアレクサンドリアやカイロに赴き、天文学を学んだ。
その後、ダマスクスの大モスク(ウマイヤ・モスク)のムワッキトとして、長く務めた。彼は天体の運行の理論を扱った著作を最も重要な仕事とし、そのほかに、計時の学と、計時のための観測器具について、多数の本と論文を著した。天体の運行の理論については、まずプトレマイオスの『アルマゲスト』が示した宇宙モデルに忠実な天文表を作ろうとしたらしいが、この写本は伝わらない。その後、観測と、観測に基づく新たな天体のモデルについて『天文観測についての注釈の書』を書いたが、これも伝わらない。続いて書いた『原理の修正における究極の探求の書』は、新しいモデルの理論的な背景を明らかにしたもので、写本が現存する。最後の著作となった『新天文表』も写本が伝わり、記された数値は新しい理論と新しい天文常数に合っている。
彼は、プトレマイオスの理論の物理的な不自然さを和らげようとした。マラーガ天文台で活動した学者たちの問題意識を引き継ぎつつ、地球を中心としない円も認めないとして、周転円を増やして説明した。月と太陽の見かけの大きさについては、プトレマイオスの理論を改善した。太陽の視直径は新しい観測データをもとに新たなモデルを作り、太陽の軌道離心率や遠地点の移動速度の常数も改めた。1371年には、ダマスクスの大モスクのミナレットに、自作の日時計を設置したと伝わる。幅2メートル、奥行1メートルの大理石に曲線を彫り、中央のグノーモンはダマスクスで天の極と平行になる角度に付けられていた。かつてこの種の日時計はヨーロッパ人の発明と信じられていたが、彼の日時計はその見方をくつがえす証拠の一つとなっている。同時代の年代記作家サファディーは、イブン・シャーティルの家で、壁に設けられた長さ35センチメートルほどの器械を見せてもらったと記した。可動部が1日で一周し、定時法と不定時法の両方で時を知らせるという。
没後、計時のための観測器具に関する著作は、15世紀から18世紀の約300年間、シリア、エジプト、トルコで広く読み継がれた。対照的に天文理論の論文は、シリアでもエジプトでもほとんど受け入れられなかったようである。ところが、16世紀のコペルニクスの理論が、天文常数の違いと地動説であることを除くと、イブン・シャーティルのものとほぼ同じだと、1950年代から注目されるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- Taj al-Din al-Subki (1370年)
- 施耐庵 (1370年没)
- エウフェミア・アヴ・スヴェーリエ (1370年没)
- グアリエント・ディ・アルポ (1370年)
- カジミェシュ3世 (ポーランド王) (1370年没)
同じ地域に関係する人物
- イブン・アービディーン (1836年没)
- Odo de St Amand (1179年没)
- ターリク・イブン・ズィヤード (720年没)
- ガイウス・ユリウス・プリスクス (249年没)
- Abu-Shama al-Maqdissi (1267年没)