伝記
フィリップ・ド・ヴァロワは、1336年7月1日に生まれたフランスの王族で、初代のオルレアン公である。ヴァロワ朝初代のフランス王フィリップ6世と、最初の王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュの息子で、のちの国王ジャン2世の弟にあたる。父方の祖父は、ヴァロワ家の祖であるヴァロワ伯シャルルであり、母方の祖父は、ブルゴーニュ公であった。ジャンヌとのあいだに成人した息子の二人目で、最後の一人でもあった。生まれたとき、父はすでに1328年から国王の座にあり、1337年に百年戦争が始まったとき、フィリップはまだ1歳にならなかった。
1343年、父フィリップ6世は、子のいないヴィエノワ太子ユンベール2世と、ドーフィネの将来の継承について交渉を始めた。当初は、ユンベールのすべての領地を幼いフィリップが継ぐことで合意したが、1344年の新たな合意で、継承者は兄ジャンに変更され、フィリップは別の領地で埋め合わされた。1344年、父は彼に、新設されたオルレアン公位と、父祖伝来のヴァロワ伯領、ボーモン=ル=ロジェ伯領を与え、同輩衆と呼ばれる大諸侯の位に引き上げた。オルレアン公位は、フランスで最初のものである。ボーモン=ル=ロジェ伯領は、1354年のマント条約ののちに、ボーモン=シュル=オワーズ伯領に替えられた。
1345年1月8日、フィリップは、またいとこにあたる王女ブランシュと、サント・シャペルで結婚した。ブランシュは、シャルル4世とジャンヌ・デヴルーの娘で、フィリップより8歳年上のカペー家の嫡流であったが、二人の間に子は生まれなかった。結婚の祝宴のあとの馬上槍試合では、フランス大元帥でウー伯の人物が、誤って槍に貫かれて死に、客たちに苦い後味を残したという。1350年に父が没したとき、フィリップは14歳であった。
1356年のポワティエの戦いでは、兄ジャン2世や甥のシャルル王太子、のちのシャルル5世とともに一軍を率いて、エドワード黒太子のイングランド軍と戦ったが、敗走した。フィリップが甥たちと逃げたのは、捕虜になって身代金を求められるのを避けるためだったという。1360年のブレティニー・カレー条約では、甥のジャン・ド・ベリーやルイ・ダンジューとともに人質としてイングランドへ送られた。1365年、エドワード3世の息子トマス・オブ・ウッドストックにサントンジュとポワトゥーの要塞を引き渡し、早期釈放を得て帰国した。
オルレアン公の紋章は、青地に金のユリの花を散らし、銀と赤のラベルを添えたものであった。兄のジャン2世は、パリのサン・タンドレ・デ・ザール通りにあるナバラ邸を彼に売った。晩年の約10年を、フィリップは領地の管理に専念して過ごし、シャルル5世ら王族が担った政治にはほとんど関わらなかった。1375年とも1376年ともされる9月1日に、突然、おそらくは事故で世を去った。正式な子はなく、オルレアン公位は継ぐ者がないまま、領地は王領に編入された。妻ブランシュには寡婦産が残り、彼女が生きているかぎり使うことができた。庶子には、のちにポワティエとボーヴェの司教となり、エルサレムへの巡礼の途上で没したルイ、ボーヴィリエ家のジェデオン5世に嫁いだマリーがいたという。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン3世・ド・グライー (1376年)
- ジャハーンギール (ティムール朝) (1376年没)
- エドワード黒太子 (1376年没)
- ハインリヒ2世 (1376年)
- Tenoch (1376年)
同じ地域に関係する人物
- シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー (1650年没)
- オーギュスタン・サンティレール (1853年没)
- マルグリット・ブロクディス (1983年没)
- エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック (1780年没)
- エリナー・オブ・レスター (1275年没)