伝記
ジャハーンギール・ミールザーは、1356年ごろに生まれ、1376年に没したティムール朝の王族で、建国者ティムールの息子である。名をギヤースッディーンといい、「信仰を輝かせる者」を意味するムイッズッディーンや、アブー・アルカースィムという敬称で呼ばれた。ティムールのお気に入りの息子で、軍の指揮官を務め、後継者と目されたが、父より30年近く早く世を去った。
ティムールには、幼児期を生き延びた4人の息子ジャハーンギール、ウマル・シャイフ、ミーラーン・シャー、シャー・ルフがおり、ジャハーンギールは、そのうちで唯一、正室から生まれた子であった。母のトゥルミシュは、チャガタイ家のアミールのなかの有力部族ガンチ部の出身で、ティムールの最初の正室である。ジャハーンギールとウマル・シャイフのどちらが年長なのかは、当時の記録の記述が前後して矛盾するため定かでない。川口琢司は、同時代の記録から生年を逆算して、ウマル・シャイフを長男、ジャハーンギールを次男としている。同時代の資料は、ジャハーンギールの容貌はみすぼらしく、素行も悪いと評している。それでもティムールは、彼を後継者とみなしていた。
1367年ごろ、11歳のジャハーンギールは、父の取り決めで、バルラスのうちフッタルに住む部族の長アミール・カイ・ホスローの娘ルカイヤと最初の結婚をした。ルカイヤは、母方からチンギス・カンの血を引いていた。1370年から、ティムールは東のモグーリスタンのドゥグラト家のカマルッディーンを討つ遠征に出た。1372年には、ホラズムのスーフィー朝に遠征した。当主のユースフ・スーフィーは、はじめ抵抗したが降伏し、姪をジャハーンギールの妻にと差し出した。この姪は、ソユン・ベグ、あるいはハンザーダ・ベギムと呼ばれ、同じくチンギス・カンの血を引き、ティムールの正室トゥグディ・ベグとは姉妹の関係にあった。彼女は翌1373年に、宝石や絹などの贈り物を載せた大行列を連ねて、ティムールの都サマルカンドへ送られた。結婚の祝いは、1374年の春に行われた。夫妻には、息子のムハンマド・スルタンと、娘のヤーディガール・スルタンが生まれた。その後、日付の分からない時期にバフト・ムルクを三人目の妻に迎えた。
ジャハーンギールは、ホラーサーンを支配するクルト朝への使者として派遣され、モグーリスタン・ハン国とジャライル朝への遠征にも加わった。1375年には、カマルッディーンが山中へ逃げ込むのを追い、各所でモグーリスタン軍の分隊を破り、カマルッディーンの妻と娘を捕らえた。娘のディルシャード・アガは、まもなくティムールの妻となった。
1376年の夏、ジャハーンギールは病で世を去った。モグーリスタンに遠征中だったティムールは、野営中に、息子が亡くなる悪夢を見て胸騒ぎを覚え、サマルカンドに帰ると、ジャハーンギールはすでに亡くなっており、住民は喪に服していたという。ティムールは悲嘆のあまり、絶え間なく続けていた遠征をしばらく止めた。1392年には、父の故郷シャフリサブスにジャハーンギールの霊廟が建てられた。ティムールは、未亡人のハンザーダ・ベギムを、ジャハーンギールの異母弟ミーラーン・シャーに嫁がせた。のちにティムールは、ジャハーンギールの息子ムハンマド・スルタンを後継者に指名したが、ムハンマドは1403年3月に早世した。ティムールはこれを嘆き悲しみ、死の直前に、もう一人の孫ピール・ムハンマドを後継者に指名した。弟のシャー・ルフも、ティムール朝の第3代君主となってから、ジャハーンギールの子孫を厚遇した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン3世・ド・グライー (1376年)
- ハインリヒ2世 (1376年)
- フィリップ・ド・ヴァロワ (オルレアン公) (1376年没)
- Tenoch (1376年)
- エドワード黒太子 (1376年没)
同じ地域に関係する人物
- クレイトス (紀元前328年没)
- アブドゥッラティーフ (1450年没)
- アブドゥッラーフ2世 (1598年没)
- ムハンマド・アル=ブハーリー (870年没)
- アダビア・エフェンディエバ (1944年没)