伝記
エドワード3世は、プランタジネット朝のイングランド王(在位1327年〜1377年)である。1312年11月13日に、ウィンザー城で、エドワード2世と王妃イザベラ(フランス王フィリップ4世の王女)の長男として生まれ、1377年6月21日に没した。妃はエノー伯ギヨーム1世の娘フィリッパで、長男にエドワード黒太子がいる。百年戦争の始期をつくり、議会の発展やガーター騎士団の創設でも知られる。
1325年、父王がアキテーヌ公としてフランス王シャルル4世に臣従の礼をとるため、イザベラを名代としてパリに送った。イザベラは皇太子エドワードもパリに呼び寄せ、宮廷の権力を握る寵臣ディスペンサー父子を追放しない限り帰国しないと宣言した。パリにはディスペンサー父子に追われた貴族が多くおり、その中に辺境諸侯の一人ロジャー・モーティマーがいた。彼と親しくなったイザベラは、夫を廃位して息子を即位させる計画を立て、エノー伯からは、娘のフィリッパを皇太子妃にすることを認める代わりに、遠征の援助を受けた。1326年9月、イザベラとモーティマーの軍はサフォークに上陸してロンドンへ進み、各地で歓迎された。ディスペンサー父子は処刑され、エドワード2世は幽閉された。1327年1月の議会で廃位と皇太子の即位が決まったが、15歳の皇太子は、父から正式な譲位がなければ即位しないと返答し、議会は譲位の文書を取った。戴冠式は1327年2月25日に行われた。
当初は母イザベラとモーティマーが国政を主導し、1328年1月のフィリッパとの結婚も母が取り仕切った。スコットランド王ロバート1世が北部へ侵攻すると、母とモーティマーは講和を懇願して、スコットランドの独立を承認し、妹ジョーンと王の長男デイヴィッドの結婚を取り決めたが、国内では「屈辱外交」として強い反発を招いた。モーティマーは急速に昇進して、1328年10月にウェールズ辺境伯の称号を得たため、王族に連なる諸侯の反発を招き、1330年春にはケント伯が反逆罪で処刑された。18歳になっていたエドワード3世は、これに憤慨し、1330年10月にノッティンガムで諸侯の会議の最中に、モーティマーをクーデタ的に逮捕した。モーティマーは議会で絞首刑を宣告されて処刑され、母は政治から引退した。
親政を始めるに当たり、諸侯の助言を得て政治を行うと宣言して貴族の支持を得た。在位中は貴族と基本的に良好な関係を保ち、伯爵家の創設や、王子と王女を国内の有力諸侯の相続人と結婚させることで、貴族を王室の藩屏にした。議会は、エドワード3世の時代に、州や都市の代表が必ず招集されるようになり、議員の構成面で完成したといえる。百年戦争の莫大な戦費のため、議会の同意を得た課税が不可欠で、議会、特に州代表議員の発言権が増し、後の庶民院の実態が形成された。1332年の議会は強制賦課金を廃止に追い込み、1340年の議会は直接税への同意権を確立したとされる制定法を定めた。
スコットランドでは、1332年にエドワード・ベイリャルが反乱を起こし、王は彼を支援した。ベイリャルは1334年にエドワード3世を「最高の主」と認定し、ベリックなどをイングランドに割譲したが、スコットランドで人望を集められなかった。1337年に、フランス王がアキテーヌ公領を没収したのに対して、母の血筋を根拠にフランス王位を請求して宣戦した。これが百年戦争の始期とされる。前半は軍事的に成功したが、後半は得た領土の大半を失い、黒死病にも見舞われた。晩年は衰えて、1376年の善良議会では政治を厳しく批判された。
同じ年に亡くなった人物
- フェデリーコ3世 (シチリア王) (1377年没)
- ヴラディスラフ1世 (1377年没)
- ギヨーム・ド・マショー (1377年没)
- アシュラフ・シャーバーン (1377年没)
- リヒャルディス・フォン・シュヴェリーン (スウェーデン王妃) (1377年没)
同じ地域に関係する人物
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- マリー・ドルレアン (1865-1909) (1909年没)
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