HISTORICAL PERSON · 626年没

蘇我馬子

敏達から推古まで4代の天皇に大臣として仕え、54年にわたり権勢を振るって蘇我氏の全盛時代を築いた。仏教を信奉して尼を得度させ、587年には排仏派の物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を即位させた。

生涯
626年没
死亡地
日本(奈良県 / 明日香村)
出生地
—
出典
世界地図
日本(奈良県)

伝記

蘇我馬子は、飛鳥時代の政治家で、551年ごろに生まれ、推古天皇34年(626年)に没したとされる。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達天皇の即位時に大臣となり、用明、崇峻、推古と4代の天皇に仕えて54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。以下の事績は主に『日本書紀』『古事記』の記述による。

敏達天皇13年(584年)、馬子は百済から来た人々の持っていた石像と仏像を請い受け、司馬達等らに修行者を探させた。播磨国で高句麗の還俗者、恵便が見つかると、馬子はこれを師として、達等の娘の嶋を得度させ善信尼とし、さらに禅蔵尼、恵善尼も尼にした。石川の邸に仏殿を造って仏法を広めたという。翌年、馬子は病になり、占いで父稲目の代に仏像を捨てた祟りと告げられて、仏法を祀る許可を得た。ところが疫病がはやり、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信じたせいだ」と奏上すると、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺の仏殿を壊し、仏像を難波の堀江に投げ込ませ、馬子に尼僧を差し出させて鞭打った。それでも疫病は治まらず、馬子は再び許可を求めて、三人の尼を返された。同年8月に敏達天皇が崩御すると、殯宮で馬子と守屋は互いに相手の姿を嘲り合ったと伝わる。

次の用明天皇は馬子の姉堅塩媛の子である。穴穂部皇子は皇位を望んで守屋と結び、三輪逆を殺させた。用明天皇2年(587年)、天皇が病のなかで仏法に帰依したいと群臣に諮ると、守屋と勝海は反対したが、馬子は詔に従うべきだとした。守屋は群臣の多くが馬子の味方だと知って河内国へ退いた。天皇の崩御後、馬子は炊屋姫を奉じて穴穂部皇子を殺害し、諸皇子や豪族の大軍を挙げて守屋を攻めた。物部の兵は稲城を築いて頑強に戦い、馬子軍は三度撃退されたが、厩戸皇子が四天王像を彫って戦勝を祈り、馬子も寺塔の建立を誓うと、軍は奮い立ち、迹見赤檮が守屋を射殺して馬子が勝利した。馬子は泊瀬部皇子を即位させて崇峻天皇とし、588年には飛鳥寺が建立された。

しかし崇峻天皇は、倉梯に宮を営んで蘇我氏との距離を置き、大伴氏の娘との間に皇子をもうけ、また任那復興のために591年に大軍を筑紫へ送るなど、蘇我氏と食い違いを深めた。592年、天皇は献上された猪を指して、憎い者をいつかこのように斬りたいと語り、多くの兵を召集した。これを知った馬子は自分が嫌われていると考えて殺害を決意し、東国から調が届くと偽って東漢駒に天皇を殺させた。駒が馬子の娘河上娘を奪って妻にすると、怒った馬子は駒をも殺させた。

馬子は炊屋姫を即位させた。初の女帝、推古天皇である。厩戸皇子が皇太子・摂政となり、馬子は太子と合議して政治を運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定め、遣隋使を送ったとされる。596年には蘇我氏の氏寺、飛鳥寺を建立した。620年には太子とともに「天皇記」「国記」などを記した。622年に太子が没すると、馬子は太子の進めた天皇権力の強化を警戒していたともいう。624年には、蘇我氏の本拠だった葛城県の割譲を推古天皇に求めたが、「大臣の願いは何でも聞いたが、これだけは聞けない」と断られた。626年に馬子は死去した。墓の桃原墓は、石舞台古墳とする説が有力である。記紀は藤原氏の権力下で編纂されたため、蘇我氏を皇室乗っ取りをもくろむ横暴な豪族として描いたのではないかという説がある。冠位十二階などを主導したのは馬子で、それを皇族の厩戸皇子の功績としたのだとする説もある。

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