伝記
ルイ1世・ダンジューは、1339年7月23日にヴァンセンヌで生まれた、百年戦争期のフランスの王族である。フランス王ジャン2世と妃ボンヌの次男で、兄に後のシャルル5世、弟にベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公がいる。1350年にポワティエ伯となり、1356年に父からアンジュー伯とメーヌ伯に任じられ、1360年にはアンジュー公に昇った。同じ1356年のポワティエの戦いでは、兄のシャルル王太子が率いる一軍に属していたが、形勢が不利になると兄とともに戦場から退いた。
1360年にブレティニー条約でイングランドとフランスが和睦すると、ルイは人質の1人としてイングランドで過ごした。この年、ブルターニュ公シャルル・ド・ブロワと妃ジャンヌの娘で、又従妹にあたるマリーと結婚した。1363年9月に身柄をロンドンからカレーへ移されると、隙を見て脱走した。若い妻のもとへ戻るため、人質としての約束を破ったとされる。責任を取って父ジャン2世が代わりに人質としてイングランドへ渡り、翌1364年に亡くなるまで虜囚として過ごした。
父の跡を継いだ兄シャルル5世に仕えたルイは、1364年からラングドックの代官としてこの地に赴任し、国王軍の指揮官、ラングドックでの王の代理として、兄の治世の中心にいた。1369年から、兄の命令でイングランド領のアキテーヌ公領の征服に取りかかり、ルエルグとケルシーを占領した。翌1370年にはアジュネとペリゴールも奪い、この年にはメーヌ伯領をトゥーレーヌ公領と交換した。10月からベルトラン・デュ・ゲクランが加わると、征服は活発になり、1375年に英仏が休戦を結ぶまでに、アキテーヌ公領の大半をフランス領にした。この間の1375年ごろには、『アポカリプスのタピスリー』を注文している。南フランスの統治では、地元の貴族に配慮し、争っていたアルマニャック伯ジャン1世とフォワ伯の仲介を試みて失敗した。1377年には、ジャン1世の息子ジャン2世とガストン3世の所領争いを、ようやく和睦させた。しかし統治は次第に不評を買った。ラングドックに重税をかけ、1374年に飢饉で人々が苦しんでいるのに、傭兵対策として各都市に地元の同意なしに徴税しようとしたため、1378年にニームで、1379年にモンペリエで住民が蜂起し、徴税役人を殺した。事態を重く見た兄により、ルイは1380年にラングドック代官を更迭され、弟のベリー公ジャン1世と交代させられた。
同じ1380年に兄が亡くなると、ルイは甥のシャルル6世の摂政を、弟のベリー公とブルゴーニュ公、ブルボン公ルイ2世とともに務めた。ナポリ女王ジョヴァンナ1世の養子となり、アヴィニョンの対立教皇クレメンス7世の支持を取り付けて、南イタリアへ進出しようとした。1382年ごろまでは摂政会議を主催していたが、やがてナポリとプロヴァンス伯領での利権に関心を移した。ナポリ遠征の軍資金を得るためにパリに重税をかけ、市民の反乱を鎮めたこともある。
1382年1月にナポリへ向けて出発したルイは、ジョヴァンナ1世を暗殺したカルロ3世と激しく争った。だが途中で軍資金が底をつき、カルロ3世方の砦を落とせずに苦戦して、食器や宝飾品を売り払うまでに資金繰りが悪化した。ルイは名目上のナポリ王を称したものの、王位を奪えないまま、1384年9月20日にバーリ近郊のビシェーリエの城で亡くなった。ナポリ王位をめぐる争いは、息子のルイ2世・ダンジューとカルロ3世の息子ラディズラーオに引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- リュバルタス (1384年没)
- トマ・プレリュボヴィチ (1384年没)
- ジョン・ウィクリフ (1384年没)
- レジーナ・デッラ・スカラ (1384年没)
- ルイ2世 (フランドル伯) (1384年没)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・ミヌキウス・ルフス (紀元前221年の執政官) (紀元前216年没)
- ルキウス・アエミリウス・パウルス (紀元前216年没)
- イザベル2世 (エルサレム女王) (1228年没)
- ボードゥアン2世 (ラテン皇帝) (1273年没)
- グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前216年没)