伝記
トマ・プレリュボヴィチは、1367年から1384年までイピロス専制公としてヨアニナを治めたセルビア人である。ギリシア名はソマス・コムニノス・プレルボスという。生年は不明である。父グルグール・プレリュブは、セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンのもとで副帝(ケサル)とセサリア行政官を務めたが、1355年末か1356年初めに非業の死を遂げた。母イェレナはその後、セルビア貴族ラドスラヴ・フラペンと再婚した。父の死後、セサリアは自立した専制公ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニの手に落ち、トマは母とともに難を逃れた。1359年にニキフォロス2世が没すると、ドゥシャンの異母弟シメオン・ウロシュ・パレオロゴスがセサリアとイピロスの掌握に乗り出し、トマはめざましい働きを見せて、1362年にシメオンの娘マリア・アンゲリナを妻とした。
シメオンの支配はイピロス北部に限られ、そこでも政情が不安定だったため、ヨアニナの市民はより強力な支配者の派遣を願い出た。シメオンは、マケドニア地方のエデサにいた婿のトマを選び、トマは1367年に妻マリアとともにヨアニナに入った。トマは富国強兵策と強権政治を敷き、税の取り立てを厳しくし、防備を固めるために多くの人を築城や補修に動員した。ペストの流行による人口減には、ギリシア人の寡婦とセルビア人男性の再婚を奨めた。こうした政策は領民や、特権を軽んじられた貴族、教会指導者の反発を招き、彼は多くの貴族を投獄あるいは追放して財産を没収し、厳しい拷問を加えたという。
南のアルバニア人勢力は北への拡大を狙った。1367年から1370年にかけてエトリア専制公ピェタル・リョシャがヨアニナを包囲し、トマは苦心して守り抜き、和平を結んだ。このとき娘とリョシャの息子ジンの縁組が決まったが、娘は1374年と1375年のペストの流行で亡くなった。1374年にリョシャが死ぬと、アカルナニアの専制公ジン・ブア・スパタが遺領を併合し、1377年9月14日にヨアニナへの遠征を始めた。収穫期に侵攻して畑や農場を荒らすスパタの戦略に苦しみ、1379年2月には内通者の反乱で城塞地区の一部が占領されたが、市民の防衛軍の奮起もあって撃退した。戦後トマはアルバニア人捕虜を殺すか奴隷として売り、内通者を探し出して拷問のうえ殺した。城郭に残る彼の築いた塔には「アルバニア人殺しソマス」というギリシア語の銘文が刻まれている。
1380年には、勢力を広げていたオスマン朝と同盟してアルバニア人との戦いを有利に進め、スパタは1382年に休戦を申し出た。同年、マヌイル2世がセサロニキで対オスマン戦争を始め、トマはその臣下にして同盟者となり、皇帝から正式に専制公の称号を授けられた。だが教会に対する厳しい態度で立場は危うくなり、派遣された府主教も追放した。1384年12月23日の早朝、護衛兵のフランク人アントニオらに暗殺された。妻マリアも陰謀に加わっていたとされ、彼女は兄弟の修道士ヨアサフらと協議して再婚し、新しい夫が専制公となった。トマの死をもって、イピロスのセルビア人支配は終わった。
トマの記録の大半は、教会人の筆による『ヨアニナ年代記』に基づき、作者は彼に強い敵意をもっていたため、暴君として描かれている。トマの政策には、相次ぐ反乱と外敵の侵入に対処するための苦肉の策だったとも評される。
同じ年に亡くなった人物
- レジーナ・デッラ・スカラ (1384年没)
- ディミトリオス・カンダクジノス (1384年没)
- マグヌス1世 (メクレンブルク公) (1384年没)
- シャー・シュジャー (ムザッファル朝) (1384年没)
- ヘールト・フローテ (1384年)
同じ地域に関係する人物
- ピュロス2世 (紀元前238年没)
- ピエール2世・ド・クルトネー (1219年没)
- アンドレアス・パパンドレウ (1996年没)
- エピクテトス (135年没)
- プトレマイオス (エピロス王) (紀元前231年没)