伝記
トグス・テムルは、モンゴル帝国の第17代ハーン、北元としては第3代の皇帝である。尊号はウスハル・ハーンといい、治世の元号から天元帝とも呼ばれる。明の官撰の史料では脱古思帖木児と記される。1342年3月7日の生まれとされるが、1349年とする記述もある。クビライ以来続いてきた元の皇統から出た最後のハーンとなった。
出自については、史料ごとに記述が錯綜している。順帝トゴン・テムルの息子で、昭宗アユルシリダラの弟とする説と、アユルシリダラの息子とする説が知られており、現在のところ、前者の説が有力である。即位する前には益王の称号を持っていた。1378年にビリクト・ハーン(アユルシリダラ)が没したとき、後継者の候補となる親王は3人おり、北元の大臣たちは誰を選ぶか迷ったという。3人は、ビリクト・ハーンの弟のトグス・テムルと、シクトゥル、そして明の捕虜となって崇礼侯に封ぜられていたマイダリ・バラだったと考えられている。結局、最年長とみられるトグス・テムルが選ばれ、ウスハル・ハーンとして即位した。同じ年の末にシクトゥルは明に降ったが、これは帝位争いに敗れたことと関係があるのではないかといわれる。
ウスハル・ハーンは翌1379年6月に即位して天元と改元した。そのころ、元を北に追いやった明が押さえていたのは、江南と華北、そしてモンゴル高原の南の縁にとどまり、元はなお精強で、明と十分に戦える状況にあった。元の支配領域は、東北部の満洲からモンゴル高原にかけてのほぼ全土に及び、甘粛や雲南には元の皇族や貴族が明と対峙していた。トグス・テムルは応昌とカラコルムの近くで兵を動員し、満洲のジャライル部のナガチュと協力して、北から明を圧迫し続けた。1380年に明は大軍で北元を攻めてカラコルムを略奪した。同年6月には、北元の華北の守備隊が明軍に打ち破られている。ウスハル・ハーンの将オルジェイ・ブカとナイル・ブカは、盧倫城を攻めて明の将校劉広を殺したが、明は翌年にも大軍を差し向けた。1382年には、雲南を治めていた梁王バツァラワルミが明軍に敗れて自殺し、大理総管の段世も明に降って、雲南は明の手に落ちた。
1387年、明の洪武帝は、満洲のナガチュの勢力を滅ぼすことを決め、長春近くの戦いで双方に大きな損害が出た。ナガチュは深刻な飢饉もあって明に降伏し、トグス・テムルは突然苦しい立場に置かれた。明はトグス・テムルへ矛先を向け、1388年にブイル・ノールで藍玉に襲われた。この戦いで、元軍は、皇后や次男のディボドをはじめ、8万といわれる多数の軍民を捕虜にされ、大半が壊滅した。ディボドは洪武帝によって琉球に流された。
トグス・テムルは都カラコルムを目指して落ち延びたが、途中で、高原西部に勢力を持つアリクブケ系の皇族イェスデルの襲撃を受け、残った軍もほとんど壊滅した。長男のテンボド、知院のネケレイ、丞相のシレムンらわずか16騎とともに辛くも逃げたが、大雪に阻まれてカラコルムに着けないうちに、トール川でイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、テンボドとともに殺された。死んだ日は1388年11月1日とも、11月18日ともいわれる。ここにクビライの皇統は一旦断絶した。トグス・テムルを殺したイェスデルはジョリクト・ハーンとして即位したが、その王統は長続きせず、モンゴルは長い混乱期に入った。この混乱が収まり、モンゴルの再興が果たされるのは約120年後、16世紀初めのダヤン・ハーンの時代であった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョバンニ・デ・ドンディ (1388年没)
- 崔瑩 (1388年没)
- フィールーズ・シャー・トゥグルク (1388年没)
- アルブレヒト4世 (メクレンブルク公) (1388年没)
- ヴェンツェル (ザクセン選帝侯) (1388年没)
同じ地域に関係する人物
- スブタイ (1248年没)