HISTORICAL PERSON · 1389年没

ムラト1世

オスマン帝国の第3代皇帝。君主として初めてスルタンの称号を用いたとされる。父の政策を継ぎ、バルカン半島へ積極的に勢力を拡大した。

生涯
1389年没
死亡地
コソボ共和国(オビリッチ / コソヴォ・ポリェ)
出生地
トルコ共和国(ブルサ)
出典
世界地図
コソボ共和国(オビリッチ)

伝記

ムラト1世は、1326年にオスマン帝国の君主オルハンの次男として生まれた。母はアナトリアのアクリタイ(辺境を守備するキリスト教徒の軍人)の娘ホロフィラである。父の在位中は知事を務めていた。当初は兄のスレイマン・パシャが後継者と目されていたが、1359年にスレイマンは落馬によって急死する。オルハンの死後には皇子たちの間で後継者争いが起こり、これを勝ち抜いたムラトが1362年3月に帝位に就いた。
即位後の最初の2年間、ムラトはアナトリアの反乱の鎮圧に力を注ぎ、バルカン半島の軍事は将軍のララ・シャヒーン・パシャ、ハジ・イル・ベイ、エウレノス・ベイらに任せた。アヒ(職人の同業者同盟)に占領されていたアンカラを回復すると、ビザンツ帝国が領有するアドリアノープル(エディルネ)の攻略に着手する。1362年7月にララ・シャヒーン・パシャがサズルデレの戦いでビザンツ軍に勝利し、1363年にアドリアノープルはオスマン帝国の支配下に入った。フィリッポポリスなども制圧され、トラキア地方はオスマンの手に帰した。これに対し教皇ウルバヌス5世が反オスマンの十字軍を呼びかけ、ハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、ボスニアの連合軍がエディルネへ進んだが、ハジ・イル・ベイの奇襲を受けて混乱し、多くがマリツァ川で溺死した。1364年のこの戦勝は、トルコ語で「セルビア総崩れ」を意味する名で呼ばれる。ムラトは1366年にエディルネをバルカン半島での都とした。

1371年、ララ・シャヒーン・パシャはセルビア・ブルガリアの諸侯をマリツァ河畔の戦いで破り、同年に派遣された遠征軍はサマコフの戦いでブルガリア皇帝を破って臣従させた。ムラトはイヴァン・シシュマンを厚く待遇し、その妹マリアを妃に迎えている。1373年には子のサウジがビザンツの皇子アンドロニコスと共謀してクーデターを企てたが、ムラトは速やかに鎮圧し、サウジを盲目にした上で処刑した。アナトリアでは、1381年に王子バヤズィトとデウレト・ハトンの婚姻を成立させ、婚資としてゲルミヤンの首都キュタヒヤなどを得た。攻撃してきたカラマン侯国にはコンヤへ進軍してカラマン平野の戦闘で勝利し、1387年に和平を結んだ。同年、4年の包囲の末にテッサロニキがオスマンの支配下に入り、ビザンツ皇帝マヌエル2世はムラトに臣従の誓いを立てた。

バルカンではセルビア、ボスニア、クロアチア、アルバニアが反オスマンの同盟を結び、ブルガリアも密かに加わっていた。大宰相アリー・パシャは1386年にブルガリアへ派遣され、ニコポリスでブルガリア軍を破り、1388年までにブルガリアの大部分がオスマンの支配下に入った。1389年春、ムラトはセルビアへ親征し、コソボ平原でバルカン諸侯の連合軍と激突する。オスマン軍は勝利を収めたが、ムラトは戦闘の最中にセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって殺害された。跡を継いだバヤズィトは報復としてラザルらを処刑し、セルビアはオスマンの支配下に入った。

ムラトは陣頭で指揮を執る人物で、法を遵守し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられる。父と同じ「ベイ」の称号を名乗る一方、碑文や貨幣の一部ではスルタンの称号も用いた。治世には国家組織の再編が進み、常備軍イェニチェリは、ムラトが征服地のキリスト教徒を徴用したものが起源とされる。捕虜の5分の1を君主の下に送って軍人奴隷に充てるペンチック制度も、トラキア征服の時期に施行された。また、カーディー(判事)制度が整備され、カザスケル(司法長官)職が新設された。

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