伝記
ラザル・フレベリャノヴィチは、1329年ごろに生まれ、1389年6月15日に没したセルビアの侯である。セルビア帝国の崩壊後、セルビアで最大かつ最強の勢力を築き、1373年から没するまでその地を支配した。1371年に断絶したネマニッチ朝の直接の後継者を自称し、セルビア帝国を復活させて自らその長となることを目指した。セルビア正教会はこの計画を全面的に支援したが、セルビアの貴族たちは彼を最高君主とは認めなかった。生前の称号はクネズ(侯)であったが、ツァール・ラザルとも呼ばれる。
ラザルは、鉱山の街として重要であったノヴォ・ブルドの近くで生まれた。家は代々プリレパツ城を治め、父プリバツは、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの宮廷で、ロゴテトという官職を務めた。ドゥシャンは、プリバツを賞してロゴテトの地位を与え、子のラザルにも、宮廷の官職の末席にあたるスタヴィラツの職を与えた。王の傍に仕える名誉な職であった。ラザルはミリツァと結婚した。1355年にドゥシャンが急死し、20歳の息子ステファン・ウロシュ5世が跡を継ぐと、ラザルはこの新しい皇帝の宮廷でもスタヴィラツとして仕えた。しかし、帝国では分離の動きが強まり、1359年にエピロスとテッサリアが離れた。ウロシュ5世は名目上の支配者に転落し、最も有力な貴族ヴォイスラヴ・ヴォイノヴィチを頼った。
1361年、ヴォイスラヴがラグサ共和国と戦争を始めると、ラグサは宮廷の有力者に働きかけた。1362年にはラザルも3反の布を贈られており、当時の彼が宮廷である程度の影響力をもっていたことがうかがえる。同年8月に和平が成立した。ラザルは、1363年7月にウロシュ5世が領土の交換を認めた文書にも、スタヴィラツとして証人の一人に名を連ねている。1363年か1365年ごろに宮廷を去ったようで、このとき35歳ほどであったが、スタヴィラツより上には出世できていなかった。1363年9月にヴォイスラヴが急死すると、ムルニャヴチェヴィチ兄弟が最強の地位を占め、1365年にはヴカシンがウロシュ5世の共同君主として戴冠した。そのころラザルも自立して小領主となったが、世襲領のプリレパツ城はヴカシンに奪われていた。1371年9月26日、ムルニャヴチェヴィチ兄弟はマリツァの戦いでオスマン軍に敗れ、ヴカシンと弟ヨヴァンは戦死した。同じ年、ウロシュ5世が世継ぎのないまま没し、ネマニッチ朝は断絶した。ラザルはムルニャヴチェヴィチ家からプリシュティナとノヴォ・ブルドを奪い、プリレパツ城も取り戻した。ヨヴァンの未亡人イェレナは修道女となってイェフィミヤと名乗り、ラザルとミリツァの夫婦のもとに身を寄せた。
1372年までに、ラザルはボスニアのバンであるトヴルトコと同盟を結び、分裂したセルビアで最大勢力となっていたニコラ・アルトマノヴィチに対抗した。ラザルはハンガリー王ラヨシュ1世に忠実な家臣になると約束し、1373年にラザルとトヴルトコの連合軍がニコラを破った。ニコラはウジツェで捕らえられ、ラザルの甥たちによって失明させられた。ラザルはラヨシュ1世の宗主権を受け入れ、ニコラの領地の多くは、ラザルと娘婿、義兄弟のムサとの間で分けられた。
その後、ラザルは1389年のコソヴォの戦いで、ムラト1世のオスマン帝国に対するキリスト教徒連合軍を率いたが、戦死した。この戦いは双方に甚大な犠牲者を出し、痛み分けに終わった。国は幼い息子が継ぎ、未亡人が摂政となって、1390年夏にオスマン帝国の宗主権を認めた。ラザルは正教会から殉教者・聖人と認定されている。
同じ年に亡くなった人物
- ハヤム・ウルク (1389年)
- Gulcicek Hatun (1389年)
- ヨハンネス・リヒテナウアー (1389年)
- ハーフェズ (1389年没)
- ドミートリー・ドンスコイ (1389年没)
同じ地域に関係する人物
- ムラト1世 (1389年没)