HISTORICAL PERSON · 1394年没

モンタウのドロテーア

モンタウ生まれの隠修女・神秘主義者で、ドイツ騎士修道会とプロイセンの守護聖人。刀鍛冶と結婚して9人の子をもうけ、幻視を得た。夫の死後はマリーエンヴェルダーの庵で隠修女となり、1976年に聖人とされた。

生涯
1394年没
死亡地
ポーランド共和国(ポモージェ県 / クフィジン)
出生地
ポーランド共和国(Matowy Wielkie)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ポモージェ県)

伝記

モンタウのドロテーアは、ドイツ騎士修道会の領地に生まれたカトリックの聖人である。隠修女、神秘主義者として知られる。1347年2月6日、マリーエンブルク近くのグロス・モンタウ村で、オランダ出身の富農の家に生まれた。7歳のとき熱湯をかぶって火傷を負い、死にかけた。幼いころから苦行と禁欲を実践し、母の指導のもとで十字架の前にひざまずき、断食の義務のない年齢でも四旬節に乳製品をとろうとしなかった。伝記作者は、自傷による火傷や極端な断食も述べている。

17歳のとき、家族に勧められて、はるかに年上のダンツィヒ(現在のグダニスク)の刀鍛冶と結婚した。夫はアーダルベルト・シュヴァルツェという名で、ドロテーアは夫とダンツィヒに移り住んだ。結婚の直後から幻視を見るようになった。夫婦の間には1366年から1380年のあいだに9人の子が生まれたが、成人したのは娘のゲルトルート1人だけで、あとは疫病などで亡くなった。ゲルトルートは、のちにクルム(現在のヘウムノ)のベネディクト会の修道院に託された。ドロテーアは、最初の幻視の体験を「大いなる喜悦により肉体と魂が飛び上がり、魂は燃えたぎる愛と喜悦からまるで溶けた銅のように流れ、霊において我らが生きた主と1つになった」と語ったという。夫は妻の神秘体験に寛容でなく、彼女を避けるようになったが、暴力を振るわれたともいわれる。ドロテーアは祈りや禁欲的な行いに多くの時間を費やし、毎日ダンツィヒの旧市街の8つの教会に通った。1380年からは、夫も彼女とともに貞潔の誓いを立てることに同意した。1384年には、ダンツィヒで行われたスウェーデンのビルギッタの埋葬の儀式に強い感銘を受け、同じ年に夫を説いて信仰に専念させた。夫妻は財産をすべて売り、ケルン、アーヘン、アインジーデルンなどへ何度も巡礼に出かけた。

1390年には夫婦でローマを訪れる予定だったが、夫が病気のため、ドロテーアはひとりで出発した。巡礼は6か月におよび、ローマで重い病気にかかったが、回復した。帰ってくると、夫はすでに亡くなっていた。夫の死は1389年とも1390年ともいわれる。1391年、ドロテーアはマリーエンヴェルダーを訪れ、大聖堂参事会員でドイツ騎士修道会士のヨハネス・マリーエンヴェルダーと出会った。騎士修道会で最も有名な神学者で、のちに彼女の聴罪司祭、伝記作者となる人物である。ダンツィヒに戻ったドロテーアは、信仰に誤りがあると疑われ、魔女として火刑にされそうになったともいわれる。告解で話した幻視が人々に知られたためとも、教会で笑ったり歌ったりしていたためともされる。同じ年、ドロテーアはダンツィヒを離れ、マリーエンヴェルダーへ移った。

ドロテーアは自分の財産を寄進し、マリーエンヴェルダー大聖堂に付属して建てられた庵に移って、隠修女としての生活を始めた。数多くの幻視を見て、ヨハネス・マリーエンヴェルダーが書き留めた。彼女はおそらく読み書きができず、自分で書いたものは伝わっていない。隠修を始めて1年余りののち、1394年6月25日に亡くなった。

死の直後から列聖が請願されたが、ドイツ騎士修道会が支援した列聖の審問は1404年以降開かれず、1955年にようやく再開された。1976年、ローマ教皇パウロ6世によって聖人とされた。ドイツ騎士修道会とプロイセンの守護聖人である。ヨハネス・マリーエンヴェルダーが書いた伝記は、1492年にマリーエンブルクで出版された。ギュンター・グラスは、不満をもつ夫の視点から、ドロテーアの生涯を小説『ひらめ』に書いた。

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