伝記
ミハイル・アレクサンドロヴィチは、トヴェリ大公(在位1368年〜1399年)で、モスクワと争ったトヴェリ公としては最後の公とされる人物である。1333年に、父アレクサンドル・ミハイロヴィチがプスコフへ逃れていたあいだに、プスコフで生まれた。その善良さが、大公であった叔父ヴァシーリーの妬みを買って不和となったが、1363年に和解した。1364年にペストで亡くなった従兄弟セミョンからドロゴブシを遺贈されると、セミョンの兄弟エレメイが抗議したが、トヴェリ主教はミハイルの所有を認めた。ミハイルが強くなると、ヴァシーリーとの関係は再び悪化し、ヴァシーリーはモスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイに、ミハイルはリトアニア大公国に支援を求めた。1367年、仲裁のためにモスクワへ行ったミハイルは、ドミトリイに投獄されたが、タタールの抗議で釈放された。1368年にヴァシーリーが亡くなり、ミハイルがトヴェリ大公となった。
その就任を喜ばないドミトリイは大軍をトヴェリに送り、ミハイルはリトアニアへ逃げた。リトアニア大公アルギルダスは、ミハイルと共にモスクワへ向かい、11月にトロスナ川でドミトリイの前衛部隊を破って、モスクワを包囲した。ドミトリイはクレムリンに立てこもり、3日間の包囲に耐えた。1370年、ミハイルはトヴェリの外壁を強化したが、モスクワが和約を破って軍を送り、ミハイルはまたリトアニアへ逃れた。ハン国のママイからは、ウラジーミル大公のヤルルィクを与えられた。同年11月にアルギルダスらの大軍がモスクワを1週間包囲したが、両者は和約した。
1371年、ミハイルはまたハン国を訪れ、ママイから大公位を認められたが、軍事援助は断られた。ドミトリイが全ルーシにミハイルへの非協力を命じたため、ミハイルはウラジーミルの町への入場を拒まれ、ドミトリイが自らハン国へ行ってヤルルィクを得ると、大公位から降りるよう伝令が来た。ミハイルはドミトリイの不在に乗じてモスクワを攻め、コストロマやウグリチ、カシンを占領した。1373年末にモスクワとトヴェリは平和条約を結んだ。1375年にモスクワがトヴェリを包囲すると、ミハイルは、ウラジーミル大公位の要求の取り下げやリトアニアと同盟しないことなどの厳しい条件をのんで和を結んだ。同年末には、息子イヴァンをリトアニアのケーストゥティスの娘と結婚させたが、のちにアルギルダスもケーストゥティスも亡くなり、ミハイルの野望は実現しなかった。
1380年のクリコヴォの戦いには、ミハイルは加わらなかったとも、イヴァンを派遣したともいわれる。1382年、ミハイルはトヴェリをハン国が攻めないよう多くの財を送り、子のアレクサンドルとともにハン国を訪れて、ウラジーミル大公位を息子に与えるよう求めたが、1年を過ごしても要求は満たされず、1383年にトヴェリへ帰った。ここでルーシの盟主になる野望を放棄し、トヴェリの国内に心を向けた。
晩年のミハイルは、裁判の公正さの確保と治安の回復に力を注いだ。1385年には、息子たちをスモレンスク公やキエフ公、モスクワの大貴族の娘とそれぞれ結婚させた。モスクワとの関係もしだいに良くなり、大公ヴァシーリー1世との条約では、「兄弟」として対等と認められた。1396年に最後のハン国訪問をし、1399年に重病に倒れて、息子たちにトヴェリ公国を遺した。8月末に剃髪して、1週間後に亡くなった。妃はスーズダリ公の娘エフドキヤで、6人の子があり、ミハイルの死後はイヴァンがトヴェリ大公になった。
同じ年に亡くなった人物
- ペトル・パルレーシュ (1399年没)
- オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン (1399年没)
- バルクーク (1399年没)
- Raymond of Capua (1399年)
- ドミトリユス・アルギルダイティス (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- Mariya Smirnova (2002年没)
- Mikhail Krug (2002年没)
- コンスタンティン・パッツ (1956年没)
- アレクセイ・クロパトキン (1925年没)
- イオフ (1607年没)