伝記
ヤドヴィガは、1373年10月から1374年2月にかけての間にハンガリー王国の首都ブダで生まれたとされる。父はハンガリー王でポーランド王でもあったラヨシュ1世、母はボスニア出身のエリザベタ・コトロマニッチで、三女であり末娘だった。息子のいなかったラヨシュ1世は娘たちに領地を継がせようとし、1375年にヤドヴィガをオーストリア公レオポルド3世の長男ヴィルヘルムに嫁がせることに同意した。1378年には将来の婚姻を約束する儀式が行われ、ヤドヴィガはほぼ2年間をウィーンなどオーストリアで過ごした。ラテン語、ハンガリー語、ポーランド語、ドイツ語など多くの言語を使いこなし、信心深い王女だったといわれる。
1382年9月10日にラヨシュ1世が亡くなり、ヤドヴィガは父の死に立ち会った。ハンガリーでは姉のマーリアが王位を継いだが、ポーランドのマウォポルスカの貴族たちは、ハンガリーとの同君連合の継続を意味するマーリアとその婚約者ジギスムントの統治を拒み、ヤドヴィガを迎えると宣言した。1383年のヴィエルコポルスカの内戦が収まった1384年11月、10歳のヤドヴィガは、「王の配偶者」の含みをもつ「女王」ではなく、男性君主を指す「王」の称号で即位した。1387年には母エリザベタが暗殺され、1395年には姉マーリアが難産で死去して、ヤドヴィガは実家の家族をすべて失った。
結婚相手には、マゾフシェ公家のシェモヴィト4世と、リトアニア大公ヨガイラが浮上した。許嫁のヴィルヘルムは1385年にヤドヴィガと正式に結婚して共同統治者の地位を得ようとしたが失敗し、ポーランドから追放された。1385年8月にはクレヴォ合同に関する条約が結ばれ、異教徒のヨガイラとリトアニア大公国がカトリックに入信することを条件に、ヨガイラがヤドヴィガと結婚してポーランド・リトアニア連合王国を形成することが定められた。12歳のヤドヴィガは、洗礼を受けてヴワディスワフ2世と名乗った38歳のヨガイラと結婚した。主権は夫に渡ったが、共同統治者の地位は保った。
ヤドヴィガは実権をほとんど持たなかったが、宮廷では政治・外交・文化の面で役割を果たし、夫が失地回復を約束した際にはその法的保証人となった。1387年にポーランドは赤ルテニアのハールィチを取り戻した。1390年にはドイツ騎士団との和平交渉を始め、自ら交渉の席についている。とはいえ国政の主要な領域は夫の裁量下にあり、ヤドヴィガが王権を行使したのは主に文化事業と慈善事業に限られた。私財を投じて著述家や芸術家を支援し、病院、学校、教会を設立し、古くなったものは修復した。リトアニアのキリスト教化にも力を注ぎ、20人のリトアニア人に奨学金を与えてプラハ大学で学ばせ、ヴィリニュス司教区を設置した。
最も名高い文化的貢献は、クラクフ大学の復興である。カジミェシュ3世が1364年に設立した大学は、その死後は機能していなかった。ヨガイラとヤドヴィガは教皇ボニファティウス9世にクラクフでの神学部設立の認可を求め、1397年1月11日に認められた。遺言に従い、宝飾品の売却金が再建費用の一部に充てられた。1399年6月22日、長女エルジュビェタ・ボニファティカを出産したが、難産がたたって母子ともに亡くなった。ヨガイラが大学再建の憲章を公布したのは、翌1400年7月26日のことである。ヤドヴィガは死後すぐからポーランドで崇敬を受け、ヨガイラとの結婚はのちのルブリン合同への道を開いたとされる。カトリック教会の聖人で、女性君主、王妃および統合ヨーロッパの守護聖人でもある。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン (1399年没)
- ジョン・オブ・ゴーント (1399年没)
- ギン・ブア・スパタ (1399年)
- イェレナ・グルバ (1399年)
- ドミトリユス・アルギルダイティス (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- バルバラ・ザーポリャ (1515年没)
- Jan Puzyna (1911年没)
- Stanislaw Nagy (2013年没)
- エルジュビェタ・グラノフスカ (1420年没)
- Zygmunt Zimowski (2016年没)