HISTORICAL PERSON · 1956年没

朴憲永

朝鮮の独立運動家、共産主義者。南朝鮮労働党の指導者となったが、1953年に金日成からスパイ罪に問われて処刑された。

生涯
1956年没
死亡地
朝鮮民主主義人民共和国(平壌市)
出生地
大韓民国(礼山郡)
出典
世界地図
朝鮮民主主義人民共和国(平壌市)

伝記

朴憲永(パク・ホニョン)は、1900年5月28日ごろ、忠清南道礼山郡新陽面に生まれた朝鮮の独立運動家・共産主義者・政治家である。生年には1898年説、1899年説、1901年説などもあるが、1900年説が広く認められている。父は朴鉉周で、母はその妾の李学奎だった。両班の家柄の子孫でありながら庶子だったため、差別的な扱いを受けたという。幼いころに漢学を学び、普通小学校を経て、1916年にソウルの京城高等普通学校に進んだ。同窓には李範奭や詩人の沈薰らがいた。京城高普の3年生だった1919年に三・一独立運動に参加し、日本の官憲に目を付けられて上海へ亡命した。

上海では高麗共産党のイルクーツク派に加わり、1922年にはモスクワで開かれた極東諸民族大会に参加した。1925年に朝鮮へ戻って逮捕され、投獄されたが、出獄後は東亜日報や朝鮮日報の記者を務めるかたわら、第1次朝鮮共産党の創立メンバーとなった。同じ年の4月18日、京城の彼の自宅に林元根や曹奉岩ら多数が集まって高麗共産青年会の発会式が行われ、彼は詮衡委員の一人になった。年末には第1次朝鮮共産党事件で逮捕されたが、精神錯乱を装って病気保釈され、1928年に釈放された。1924年には金億と協力してエスペラントの講習会を開き、朝鮮エスペランチスト連盟の結成にも加わっている。1928年12月にソ連へ逃れてモスクワ共産大学で学び、1932年に上海で逮捕されたが、1939年に出獄すると、光州の煉瓦工場の労働者として身分を隠しながら地下組織を指導した。

日本の敗戦後、米ソ両軍の軍政下で朝鮮共産党再建準備委員会を結成した。すでに長安派と呼ばれる共産党があったが、彼は指導者に迎えようとする長安派の申し出を断って解散を求め、激しい論争の末に長安派は再建派に合流した。平壌が先に北部分局を発足させていたものの、彼は南半部の指導者となった。その後、党は他の左派政党と合併して南朝鮮労働党となったが、1946年の夏に米軍政府から逮捕命令が出ると、指導部とともに北へ越境した。一説では、1946年2月にスターリンがモスクワで、新生北朝鮮の指導者に金日成と朴憲永のどちらが適任かを面接で決め、金日成が選ばれたともいわれる。ソウルで活動したため平壌に知己が少なく、信頼が薄かったことが理由だったという。1948年1月には李承晩による南半部のみの単独政府樹立に強く反対し、4月に南北協商のため北朝鮮へ向かい、そのまま平壌にとどまった。南側の右翼政権のもとでは、地下運動は不可能と考えたからだとされる。北では朝鮮労働党の中央委員会副委員長を務め、のちに副首相兼外相となった。

朝鮮戦争が膠着すると、その責任をめぐって南朝鮮労働党系と金日成の満州派との対立が激化した。1953年3月、朴憲永はクーデター容疑や「アメリカ帝国主義のスパイ」「反党分裂分子」などの容疑で一斉に逮捕された。党から除名され、収容所で拷問を受けたとされる。他の被告と分けられ、裁判は遅れて、1956年12月15日に北朝鮮の最高裁判所で行われた。彼は容疑をすべて認めたが、その物的証拠はなく、同日のうちに死刑判決を受け、ほどなく処刑されたという。北朝鮮では今も絶対悪の象徴とされ、2013年に張成沢が粛清された際にも、その名が引き合いに出された。

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