伝記
レオポルト4世は、1371年に生まれ、1411年6月3日にウィーンで没した、ハプスブルク家レオポルト系のオーストリア公である。肥満公と呼ばれた。オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの公爵レオポルト3世と、ミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの娘ヴェルデの次男として生まれた。
レオポルト3世がゼンパハの戦いで戦死したのち、兄のヴィルヘルムが、内オーストリア、チロル伯領、前方オーストリアの君主となった。ヴィルヘルムは叔父の後見を受け入れなければならなかった。ヴィルヘルムはレオポルトを事実上の共同統治者とし、ハプスブルク家の先祖伝来の地がスイスのアールガウなどにある前方オーストリアを任せたため、レオポルトはスイスの側の反対に直面した。1391年からは、前方オーストリアの事実上の統治者となった。1393年には、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)の娘カトリーヌ(1378年 - 1425年)と結婚したが、子はなかった。
1395年に叔父が死ぬと、レオポルトは兄ヴィルヘルムと従兄アルブレヒト4世とのあいだで協定を結んだ。この協定によって、ヴィルヘルムとアルブレヒト4世がオーストリア本国を共同で執政し、レオポルトは1396年から1406年まで、チロルと前方オーストリアを統治した。神聖ローマ帝国の諸侯として、彼はのちにローマ王に選ばれた選帝侯の支持者となり、弟のフリードリヒはその選帝侯の娘エリーザベトと婚約した。フリードリヒは1402年に成年に達して共同統治者となり、前方オーストリアの統治を担った。1404年にアルブレヒト4世が急死すると、レオポルトは幼い甥の後見を求めたが、兄ヴィルヘルムに譲らざるをえなかった。1405年には、アッペンツェルの山岳民との戦いで、シュトスの戦いに大敗した。
1406年にヴィルヘルムが子のないまま死ぬと、レオポルトは一族の長となった。その後、幼い従甥アルブレヒト5世(のちのローマ王アルブレヒト2世)とともにオーストリアの執政に専念できるようになり、チロルと前方オーストリアの執政は弟のフリードリヒ4世に譲られた。弟のエルンスト(鉄公)とは、オーストリア諸邦の主導権をめぐって争った。ルクセンブルク家のジギスムントの仲介で、アルブレヒト5世は成年に達する1411年まで、レオポルト系の2人の従伯父の後見のもとにあった。レオポルトは1411年に急死し、ウィーンの聖シュテファン大聖堂に葬られた。その後、アルブレヒト5世が単独でオーストリア公の地位を保ち、エルンストは内オーストリア、フリードリヒは、チロルと前方オーストリアを治めた。この三つの領邦の分かれ方は、近代まで続いた。
同じ年に亡くなった人物
- ロベール1世 (バル公) (1411年没)
- タテブのグリゴル (1411年(推定))
- エリーザベト・フォン・ニュルンベルク (1411年没)
- ヨープスト・フォン・メーレン (1411年没)
- ハリール・スルタン (1411年没)
同じ地域に関係する人物
- クレマンティーヌ・ドルレアン (1907年没)
- ルドルフ・ヒデン (1973年没)
- マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1737-1740) (1740年没)
- カート・シュミット (2007年没)
- カレル・シュヴァルツェンベルク (2023年没)