HISTORICAL PERSON · 1412年没

ナースィル・ファラジュ

ブルジー・マムルーク朝のスルターン。父バルクークの急死で10代前半に即位。ティムールの侵入や反乱が続き、飢饉と疫病で人口が3分の1に減った。1412年に敗れて降伏し、暗殺された。

生涯
1412年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスクス城)
出生地
—
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

アル=ナースィル・ファラジュは、ブルジー・マムルーク朝の君主(スルターン)である。在位は1399年から1412年までで、1405年に短い中断があった。ブルジー・マムルーク朝の最初のスルターンであるザーヒル・バルクークの子で、母はギリシャ系の女性だった。生年は1386年ともされ、1389年とも伝わる。1399年に父のバルクークが急死すると、10代前半の少年だったファラジュがスルターンの位に就いた。

バルクークは死の直前に、大法官、将軍、カリフに、長子のファラジュにスルターンの位を継がせ、その後に残りの2人の子をスルターンにするよう遺言した。そして、総司令官のアイタミシュをファラジュの後見人に選んだ。1399年11月、後見人に選ばれなかったダマスカス太守のタナム・アルハサニーが反乱を起こし、後見人の職を外されたアイタミシュ、ハマー、アレッポ、トリポリの太守らも反乱軍に加わった。ファラジュは軍を率いて討伐に出発し、ガザで反乱軍を破り、タナムとアイタミシュらを捕らえた。1400年3月30日にダマスカスに入城して首謀者をすべて処刑し、5月にカイロへ帰った。

反乱を鎮めたのも束の間、中央アジアのティムールがシリアに侵入したという知らせが届いた。ティムールは1400年にアレッポとダマスカスを略奪し、抵抗したアレッポでは激しい破壊と虐殺が行われた。ファラジュはダマスカスの救援に向かったが、ティムールの軍と向き合っているさなかに、カイロで反乱が企てられているという知らせを受け、ダマスカスを放棄してエジプトに戻った。ティムールの去ったあとも、治世は無秩序と混乱が続いた。カイロでは絶え間なく反乱が起こり、シリアのアミールたちは反乱を起こし、彼ら同士でも権力を争った。飢饉と疫病のために、国の人口は3分の1に減ったといわれる。

1405年9月、ファラジュは周囲の陰謀を恐れて位を退き、一時は兄弟のアブド・アルアズィーズがスルターンに即位した。同年11月、ファラジュは復位した。治世の末期にはみずからの権力を強めようとして、バールベックでシリアのアミールたちとの7回目で最後の武力衝突に入った。ファラジュは敗れてダマスカスの城塞に逃れたが、降伏し、1412年5月23日に、独房で刺客によって殺された。死から数日たった夜、遺体は市民たちの手で埋葬された。ファラジュの死後、アミールたちは暫定的な措置として、カリフのムスタイーンをスルターンの位に就けた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物