伝記
ヨハンネス・チコーニアは、中世イタリアのトレチェント音楽の末期に活躍した作曲家で、音楽理論家でもある。リエージュに生まれ、成人してからの大半をイタリアで過ごした。ルネサンス音楽の時代に先がけて、フランスやイタリアで活躍した最初のフランドル人作曲家のひとりとされる。生年は1373年ごろとされる。同名の父との混同から、長らく1330年代の生まれとする説がとられてきたが、現在はそれより遅い年代が考えられている。
父も同じヨハンネス・チコーニアという名の聖職者で、母は高い身分の女性だった。同じ名の人物がリエージュの周辺に少なくとも3人いたため、人物の取り違えが生じ、1975年にデイヴィッド・ファロウズが初めて整理した。父は1350年にアヴィニョンで、教皇クレメンス6世の甥の妻の秘書を務め、1358年にイタリアに着いてパドヴァで活動した。のちにアルボルノス枢機卿の従者として各地を巡り、各地の音楽様式に通じるようになり、1372年にリエージュへ戻った。
子のヨハンネスについての記述が現れるのは、父が参事会員を務めていたリエージュの福音者聖ヨハネ教会に、聖歌隊の歌手として登録された1385年の記録である。その後は、フィリップ・ダランソン枢機卿のもとに、1397年に枢機卿が亡くなるまで仕えた。枢機卿の赴任先の北欧各地に赴き、帰還とともにローマのトラステーヴェレの聖マリア教会に移った。このころ、教皇ボニファティウス9世のもとで活躍していたアントニオ・ザッカーラ・ダ・テーラモと出会い、とくにグローリアなどのミサの曲で、たがいに影響しあったことが作品からうかがえる。1399年ごろには、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの宮廷におそらくパヴィアの離宮で出入りして、フィリップス・デ・カゼルタに学び、アルス・スブティリオルを吸収したとも見られている。1401年6月までにパドヴァに渡り、1412年の6月ないし7月に亡くなるまで、教会の楽長、少年聖歌隊員の指導者として在籍した。教会での成功により、チコーニアはかなり安楽で豊かな暮らしを送ったとみられる。
最初の作品は1390年代にさかのぼる。作風は折衷的で、北イタリアのトレチェント音楽の典型が、フランスのアルス・ノヴァやアルス・スブティリオルと結びつき、中世後期の書法から、ルネサンス音楽を指し示す書法へ変わりつつある。世俗曲にはフランス語のヴィルレー、イタリア語のバッラータやマドリガーレがあり、宗教曲にはイソリズムを用いたモテットやミサ曲の断章がある。年代の分かる曲としては、1393年にトラーニに新しい司教が着任した際のモテット、1406年1月ごろ、パドヴァがヴェネツィア共和国の支配下に置かれたときの「おお、美しき星パドヴァよ」、1406年4月とみられる「天から遣わされたアルバヌスよ」、1409年11月、パドヴァの司教にピエトロ・マルチェロが新任した際の「ピエトロ・マルチェロを」などの祝祭用のモテットがある。バッラータ「涙を浮かべて」は当時も有名だったようだが、作者や作曲の事情には諸説がある。「麗しのバラよ」は、作詞者の生まれた年を考えるとチコーニアの作とするには無理があるという見方もある。チコーニアは音楽論も書き、『新しい音楽』で、協和する3度と6度の音程を受け入れるべきだと主張した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ (1412年没)
- マルグレーテ1世 (1412年没)
- ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ (1412年没)
- ナースィル・ファラジュ (1412年没)
- カトリーヌ・ド・ヴァンドーム (1412年没)
同じ地域に関係する人物
- フランセスコ・ツァンテデシ (1873年没)
- ジュゼッペ・タルティーニ (1770年没)
- マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア (1840年没)
- プロスペロ・アルピーニ (1617年没)
- リッカルド・ドリゴ (1930年没)