HISTORICAL PERSON · 1959年没

マイク・ホーソーン

イングランド出身のレーシングドライバー。1953年のフランスグランプリでフェラーリの一員として初優勝し、1958年にF1世界チャンピオンとなった。

生涯
1959年没
死亡地
イギリス連邦(サリー / ギルフォード)
出生地
イギリス連邦(メクスバラ)
出典
世界地図
イギリス連邦(サリー)

伝記

ジョン・マイケル・ホーソーンは、1929年4月10日、イングランド北部ヨークシャーのメクスバラで、レズリーとウィニフレッドの子として生まれた。ウェスト・サセックスのアーディングリー・カレッジで学び、チェルシーの工科学校を経て、商用車メーカーで見習いをした。父はファーナムでツーリスト・トロフィー・ガレージを営み、ジャガーやフェラーリなど高性能車の販売と整備を請け負っていた。自身もオートバイのレースに出た父は息子の競技活動を支え、1954年に交通事故で亡くなると、ホーソーンがその事業を相続した。

競技デビューは1950年9月2日、自分のライリーでブライトンのスピード・トライアルに出て、1100ccクラスで優勝した。1952年に単座席の車に移ると、F2のクーパー・ブリストルでグッドウッドの初勝利を挙げ、エンツォ・フェラーリの目に留まった。同年のベルギーグランプリでF1にデビューして4位に入り、英国グランプリでは3位となって初めて表彰台に上がった。1953年にはフェラーリのワークスチームの一員となり、第5戦のフランスグランプリで初優勝する。チャンピオン経験者ファン・マヌエル・ファンジオと最終ラップの最終コーナーまで争って逆転する勝利は「ランスの名勝負」として知られる。当時の最年少優勝記録(24歳)を更新し、イギリス人として初めての優勝にもなった。この年はスパ24時間レースも制した。1954年には兵役の問題が下院で取り上げられたが、最終戦のスペイングランプリで2勝目を挙げた。父の死後、一時ヴァンウォールに移ったものの、2戦でフェラーリに戻っている。

1955年1月にジャガーに加わり、ル・マン24時間レースで優勝した。序盤にはファンジオと約3時間にわたって一騎打ちを演じている。しかしこのレースでは、観客席に車の破片が飛び込む史上最悪の事故が起き、ドライバーのレヴェーグと観客80人以上が亡くなった。ホーソーンがピットに入る合図に気づいて急にブレーキを踏み、避けようとしたマックリンの車が、レヴェーグのメルセデスの進路に入ったのが発端とされる。公式の調査はホーソーンに責任はないと裁定したが、フランスの新聞は優勝の祝杯を挙げる姿を冷ややかに伝えた。1957年にフェラーリに正式に復帰し、1958年はファンジオが2戦のみで引退したため、同じイギリス人のスターリング・モスと激しい王座争いになった。モスは4勝したが、優勝以外はほとんどリタイアだった。ホーソーンの勝利はフランスグランプリの1回だけだったが、2位に5回入るなど堅実に得点を重ね、1ポイント差で初のイギリス人F1チャンピオンとなった。

その2か月後、ホーソーンは引退を表明した。親しいチームメイトのピーター・コリンズが同年のドイツグランプリで事故死したこと、婚約者ができたこと、自らも肝臓を病んでいたことが理由とされる。1959年1月22日、商用でロンドンに向かう途中のギルフォードのバイパスで、友人のロブ・ウォーカーの車を追い抜いた直後に、ホーソーンの車は突然スピンして後ろ向きでトラックに衝突し、立木にぶつかって、本人は亡くなった。原因は解明されていない。蝶ネクタイを愛用して「ル・パピヨン」と呼ばれ、1959年から彼の名を冠したトロフィーが毎年、最も活躍した英国または英連邦出身のF1ドライバーに贈られている。

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