伝記
ジャン・マルエルは、ネーデルラントのナイメーヘンに生まれ、1415年にディジョンで没した初期フランドル派の画家である。オランダ語名ではヤン・マエルウァエルといい、生年は1365年ごろとも1370年から1375年の間ともいわれる。ゲルデルン公国の宮廷に仕えた画家一族の出身で、父ウィレムと叔父ヘルマンの工房で学んだ。父と叔父は、公爵家のために紋章画や祝祭の装飾を手がけたが、作品は残っていない。ジャンは父たちを手伝い、1387年の文書に初めて名が見える。1395年、ディジョンの記録に、マロエという画家の名が現れる。ジャンのことではないかとされる。
1396年から1397年にかけて、ジャンはパリで、フランス王シャルル6世の妃イザボー・ド・バヴィエールに仕え、絹地に金で描く紋章の装飾を請け負った。1397年8月にはブルゴーニュ公国の首都ディジョンに招かれ、1396年ごろに死去したジャン・ド・ボーメスから、フィリップ2世の宮廷画家と近侍の地位を引き継いだ。ジャンはこの地位を死ぬまで保ち、ボーメスや、同じころ公の宮廷彫刻家だったクラウス・スリューテルより高い報酬を得た。公が一族の墓所として建てたシャンモル修道院の装飾に携わり、1397年の末には聖母のまわりに聖アントニウスと使徒たちを描いた絵を、公の祈禱室のために仕上げた。1398年からは、修道院の礼拝堂のための5つの祭壇画に取り組み、同年に祭壇画用の木製パネルを受け取った記録がある。1400年ごろには甥のリンブルク兄弟を公に引き合わせ、同じ年に晩年の公の肖像画を描いたが、現存するのはその模写とみられている。1401年からはケルンのヘルマンが助手として記録され、1401年から1404年までの3年間、スリューテルの彫刻『モーゼの井戸』の彩色と金箔張りが行われ、ジャンが関わったと考えられている。公の霊廟の彩色も担った。
フィリップ2世が没した後の1405年、ジャンは結婚のため一時ナイメーヘンに帰国し、妻ハイルヴィヒとともにまもなくディジョンへ戻り、ジャン1世に仕え続けた。1413年にはポルトガル王の求めでジャン1世の肖像画を描き、同じ年に2か月以上ディジョンを離れたという記録がある。1415年にディジョンで死去し、妻と4人の子が残された。ハイルヴィヒはジャン1世から年金を受けてナイメーヘンに帰り、遺産をめぐる訴訟を長く続けた。
ジャンの名で記録された作品はひとつも残らず、署名のある作品もない。ジャンの作とされる板絵はすべて作者が議論の対象だが、ルーヴル美術館の『円形大ピエタ』はまず間違いないと考えられている。この絵の裏にはフィリップ2世の紋章があり、完成は公の没する1404年より前と見られる。初期フランドル派とシエナ派の要素が混ざり、国際ゴシックの様式とも見なされ、テンペラで描かれたが、半透明のつやをもつ表現は、ジャンの死後にヤン・ファン・エイクが大きく発展させることになる。
同じ修道院に由来する『聖ドニの祭壇画』は、ジャンが描き始め、死後にアンリ・ベルショーズが完成させたと考えられている。大公家の記録には、ベルショーズに「完成させるため」顔料を渡したとある。ただ、この作者をめぐっては1961年にニコル・レイノーが異議を唱え、今も議論が続く。1960年にベルリンで見つかった大きな『聖母子像』も、ジャンの作とされ、もう片方にジャン1世の肖像があった二連祭壇画の片方で、現存する最古の二連祭壇画の形式だとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アントワーヌ (ブラバント公) (1415年没)
- マイスター・ベルトラム (1415年)
- ルイ・ド・ギュイエンヌ (1415年没)
- エドワード・オブ・ノリッジ (1415年没)
- ジャン1世 (アランソン公) (1415年没)
同じ地域に関係する人物
- マルグリット・ド・バヴィエール (1423年没)
- ベルナール・ロワゾー (2003年没)
- ユーグ5世 (ブルゴーニュ公) (1315年没)
- Claude Antoine, comte Prieur-Duvernois (1832年没)
- イザベル・ド・ポルテュガル (1471年没)