伝記
ザーヒル・タタールは、エジプトのブルジー・マムルーク朝の第7代スルターンである。称号はアッ=ザーヒルで、名はサイフッディーンという。1421年のごく短い期間だけ在位した。生年は1366年とも1390年ごろともいわれる。チェルケス人の出身で、1399年ごろ、少年の奴隷としてカイロに連れてこられた。タタールという名は、チェルケス人が、子が生まれた後に最初に戸を叩いた人の名を子につける習慣によるといい、タタールの場合は、最初に戸を叩いたのがタタール人の男だったからと伝えられる。初代スルターンのバルクークの時代からマムルーク朝に仕える有力なマムルークとなり、ついにアミールの地位まで上った。
1421年、先代のスルターン、ムアイヤド・シャイフが亡くなると、そのごく幼い子ムザッファル・アフマドが即位した。指名されていた摂政は遠征中であった。タタールは、シャイフの葬儀より前にマムルークの有力者のあいだで地位を固め、すばやく幼いスルターンの摂政となった。しかし、すべての者が納得したわけではなく、ダマスクスの総督が彼の実質的な支配に反発して反乱を起こした。タタールはこれを鎮圧し、勝者としてダマスクスに入り、多くの敵を処刑した。1421年8月4日には、アフマドの生母ハワンド・サアーダと結婚した。彼女はシルギトミシュの娘で、かつてシャイフの妃であった。
1421年8月29日、タタールはダマスクスの城塞でアフマドを廃位し、自らスルターンに即位して、カイロへ戻った。アフマドは幽閉され、タタールは生母とも離婚したという。生母は復讐のため、同じ年のうちにタタールを暗殺したともいわれる。だが、多くの史料は、彼が病で亡くなったと伝える。敵に襲われることを恐れて、ダマスクスへ出発してからいつも着物の下に鎖かたびらをつけていたため、慢性の風邪をひいたという。体調は急速に悪化し、1421年11月30日に亡くなった。その2日前には、子のムハンマドを後継者に指名し、バルスバーイを養育係に、ジャーニバクを摂政に任じた。ムハンマドは、ナースィルッディーン・ムハンマドとして、1421年から1422年まで在位した。
家族については、ある妻はクトルブガの娘で、娘のハワンド・ファーティマを産んだ。ファーティマはのちにスルターンとなるバルスバーイと結婚し、1469年8月30日に亡くなった。別の娘スィット・アル=ムルークは、総司令官のヤシュバク・アッ=スドゥーニーと結婚した。歴史家のマクリーズィーは、タタールを信心深く、善良で、気前がよいが、遊びに興じる面もあり、ハナフィー派に熱心であったと評した。短い治世にもかかわらず国は多くの費用を使い、後継者の負担になった。マクリーズィーは「その日々は、行いが称賛されるほども非難されるほども長くなかった」と結んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン2世・ル・マングル (1421年没)
- トマス・オブ・ランカスター (1421年没)
- ムアイヤド・シャイフ (1421年没)
- ヒズル・ハーン (1421年没)
- フィルベール・ドゥ・ネラク (1421年)
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