HISTORICAL PERSON · 1421年没

メフメト1世

オスマン帝国の第5代皇帝。アンカラの戦いの後に分裂した帝国を再統一し、短い治世で国家の再建に力を注いだと評価される。

生涯
1421年没
死亡地
トルコ共和国(エディルネ県 / エディルネ)
出生地
トルコ共和国(ブルサ)
出典
世界地図
トルコ共和国(エディルネ県)

伝記

メフメト1世は、1386年ごろ(1385年とする資料もある)に生まれ、1421年5月26日に没したオスマン帝国の第5代スルターンで、在位は1413年から1421年までである。第4代バヤズィト1世の子で、チェレビー(典雅王)の別名で知られる。分裂した帝国を再統一し、短い治世で国家の再建に注力した皇帝と評価される。

父の存命中は、アマスィヤの知事を務めた。1402年のアンカラの戦いで、父バヤズィト1世がティムールに敗れて捕虜となった。メフメトも従軍していたが、トルコ人兵に助けられて無事に脱出した。戦いの後は任地アマスィヤを拠点とした。ティムールの軍はアナトリアに長くとどまらずに撤退したが、かつてオスマン帝国に併合された君侯国はティムールによって再興され、アナトリアの領土は祖父ムラト1世以前の規模にまで縮小していた。さらに、三人の兄弟がそれぞれ帝位を主張した。エディルネを拠点にバルカンを支配するスレイマン、ブルサのイーサー、キュタヒヤのムーサーである。足かけ11年にわたるこの兄弟間の抗争の時代は、空位時代、あるいは危機の時代と呼ばれる。

スレイマンが譲歩と引き換えにビザンツ皇帝マヌエル2世らバルカンのキリスト教君主と同盟したのに対し、メフメトらアナトリアを拠点とする王子は、異教徒と戦うガーズィーの伝統を大義名分に掲げた。メフメトはイーサーを攻撃してブルサとイズニクを奪い、彼をコンスタンティノープルへ追った。スレイマンは1404年にバルカンからアジア側へ進攻し、ブルサなどを占領して、当初は優位に立った。メフメトは、ティムールが復興させたアイドゥン、サルハン、テケ、メンテシェの諸侯国を破り、再び宗主権を認めさせた。1409年、スレイマンを挟撃するため、弟ムーサーをバルカンへ派遣した。ムーサーはセルビア、ワラキア、ブルガリアの軍を率いてエディルネのスレイマンを攻め、スレイマンは軍を戻したため、メフメトはアナトリア西部を制圧できた。1411年2月にスレイマンは戦死し、勝利したムーサーは貨幣に自らの名を刻んで君主を称した。しかしムーサーは、財産の共有などを唱えたスーフィーのシェイフ・ベドレッディンを大法官に起用し、貴族や神学者の猛反発を受けた。メフメトはマヌエル2世やセルビア公ステファン・ラザレヴィチと同盟し、1413年7月、ムーサーを討った。帝国の再統一を果たした彼は、チェレビーなどの称号に代えて、正式にスルターンを称した。

再統一後は、ビザンツ帝国に友好的な態度をとり、束の間の平和が訪れた。アナトリアに戻ると、カラマン侯国が協定を破って侵入し、ムーサーの旧将校ジュネイトがイズミルで反乱を起こしていた。イズミル攻撃と2度のコンヤ包囲を経て、1416年にカラマンを降伏させ、ジュネイトを追放した。同年、ゲリボルでヴェネツィア艦隊と交戦し、講和を結んでダーダネルス海峡の制海権を回復した。1418年から1420年には、ベドレッディンの思想に共鳴した宗教反乱が起き、ベドレッディンは処刑された。1419年には兄弟のムスタファを名乗る反乱者が現れたが、メフメトは彼を破り、偽ムスタファはコンスタンティノープルに亡命した。

1421年5月26日にメフメトは没し、息子ムラトがブルサに入って即位するまで、その死は秘された。その治世は、トルコ人貴族が宮廷で権勢をふるった最後の時代とされ、チャンダルル家をはじめとするトルコ系の有力者が優遇された。一方、バヤズィト1世に仕えたキリスト教徒は宮廷から追放され、デヴシルメで徴用したイェニチェリの拡張は行われなかった。

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