伝記
ベネディクトゥス13世は、1328年か1329年に生まれた対立教皇で、アラゴン王国の大貴族ルナ家の出身である。本名はペドロ・マルティネス・デ・ルナといい、アラゴンではエル・パパ・ルナの名で知られる。モンペリエ大学で学び、教会法の教授となり、法学の著作を多く書いたほか、神学や禁欲の手引書も著した。教皇グレゴリウス11世に仕え、1375年に枢機卿に任命された。1378年にウルバヌス6世を選んだコンクラーヴェに出席した。当初はウルバヌス6世を支持していたが、その横暴な態度に耐えられなくなり、教会大分裂が始まると、対立教皇クレメンス7世を支持してアヴィニョンに残った。クレメンス7世から教皇使節に任じられ、アラゴンとカスティーリャを味方につけるため、のちに聖人となるビセンテ・フェレールを補佐として、支持者集めに奔走した。
1394年にクレメンス7世が死ぬと、アヴィニョンのコンクラーヴェで教皇に選ばれた。ローマとの合同に努めることを誓い、ローマ教皇ボニファティウス9世、インノケンティウス7世、グレゴリウス12世と交渉したが、いずれも失敗した。支持者だったフランス王シャルル6世にも見放され、1398年にはフランス軍にアヴィニョンを占領されて、5年あまり教皇宮殿に立てこもった。彼は1403年にようやく宮殿を抜け出し、プロヴァンス伯のもとのシャトールナールに逃れた。1408年からは、ペルピニャンを避難場所として提供したアラゴン王マルティン1世の支持にすがるほかなくなった。
1409年のピサ教会会議は、グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世の廃位と、アレクサンデル5世の選出を決めたが、前の2人はともに退位を拒み、同時に3人の教皇が立つ異常な事態となった。1410年にマルティン1世が亡くなると、後継者会議にはフェレールが出席し、1412年に彼が推すフェルナンド1世がアラゴン王に選ばれた。支持国のスコットランドのセント・アンドルーズ大学では、創立憲章に彼の教皇印璽が押されている。1415年のコンスタンツ公会議で3人の教皇の廃位が正式に決まり、グレゴリウス12世は自ら退位し、ヨハネス23世は捕らえられて廃位された。ベネディクトゥス13世は退位を拒んだが、フェルナンド1世やカスティーリャ、ナバラ、スコットランドに見放され、フェレールにも離反されて孤立し、1417年に正式に廃位されて、新たにマルティヌス5世が選ばれた。こうして教会大分裂は終わった。
それでも彼は退位を認めず、自分を見放したフェルナンド1世を、1416年に亡くなるまで呪い続けた。1417年からはフェルナンド1世の息子アルフォンソ5世の庇護を受けて、バレンシアのペニスコラ城に隠れ住んだ。1422年に4人の枢機卿を任命して後継者の選出を命じ、1423年5月23日に亡くなるまで、自分が正統の教皇だと主張した。その死後、ペニスコラで対立教皇クレメンス8世が選ばれたが弱く、枢機卿のひとりが反発してベネディクトゥス14世を選び、内部が割れたまま、クレメンス8世は1429年に退位した。遺体は1811年にスペインへ侵攻したフランス軍によって、頭部を除いて打ち砕かれて投げ捨てられた。ペニスコラでは今もパパ・ルナとして慕われている。
同じ年に亡くなった人物
- トンマーゾ・モチェニーゴ (1423年没)
- アルブレヒト5世 (メクレンブルク公) (1423年没)
- マルグリット・ド・バヴィエール (1423年没)
- ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス (1423年没)
- コンラート・フォン・ゼスト (1423年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アル=ムクタディル (1082年没)
- Vicente Casanova y Marzol (1930年没)
- ホルダン・デ・アッソ (1814年没)
- バルタサール・カルロス・デ・アウストリア (1646年没)
- Maria Andresa Casamayor (1780年没)