HISTORICAL PERSON · 1423年没

ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス

セルビア王家出身のセサリア皇帝。早くから信仰に傾倒して修道士ヨアサフとなり、大メテオロン修道院長として姉妹の再婚など地域の政治にも影響力を保った。

生涯
1423年没
死亡地
ギリシャ共和国(テッサリア / メテオラ)
出生地
—
出典
世界地図
ギリシャ共和国(テッサリア)

伝記

ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴスは、中世セルビア王国の王子で、セルビア人のテッサリア皇帝である。ギリシア語名はヨアニス・ウレシス・ドゥカス・パレオロゴスという。のちにメテオラ修道院の修道士となり、修道士ヨアサフとしても知られる。生まれた年は定かでなく、1350年前後とも、1326年ごろともいわれる。セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟であるシメオン・ウロシュ・パレオロゴスの長男で、ネマニッチ家の最後の末裔にあたる。母はトマイス・オルシーニである。幼いころに、父シメオンの共同統治者、後継者に指名された。1370年ごろ、セルビア諸侯の1人ラドスラヴ・フラペンの娘イェレナと結婚した。

1371年に父が亡くなると、若くしてテッサリアのトリカラで皇帝となった。その統治は、約10年にわたったともいわれ、数か月だったともいわれる。皇帝としては特筆すべき業績を残していないが、イピロス専制公国の混乱を収めるなど、統治者としては、むしろ有能だったと思われる。ただ、ヨヴァン自身は、早くから俗世よりも信仰と修道生活に傾いていた。即位後間もない1372年11月にメテオラ修道院を訪れ、以後この修道活動の中心地との関係を強めていった。政治にはあまり向かず、実際の統治は、土着の有力者で「副帝」の称号をもつアレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノスにゆだねたとされる。修道士ヨアサフとしての最も早い記録は1381年のもので、このころには皇帝の支配権と世俗の生活を捨てていたとみられる。

ヨアサフは、メテオラの高名な修道士アサナシオスの高弟となり、アサナシオスが創立した大メテオロン修道院で修道生活を始めた。1384年4月20日にアサナシオスが亡くなると、院長に就任した。大メテオロン修道院の主聖堂であるメタモルフォシス聖堂は、1387年にヨアサフによって修復、再建された。1388年から1390年には、新しい修道院の創立にも貢献した。修道士となったあとも、「皇帝」の称号で呼ばれ、地域の住民から高い尊敬を集め、政治的な決定の場でも影響力を持った。姉妹マリアの夫でイピロス専制公のトマ・プレリュボヴィチが、1384年の末に暗殺されると、地元の有力者と協力して、未亡人のマリアが、エザウ・デ・ブオンデルモンティと結婚し、1385年にエザウが専制公位を継ぐことを決めた。

1394年にオスマン朝がテッサリアを征服すると、ヨアサフは一度メテオラとテッサリア地方を離れ、アトス山に移って、有力な修道院の1つであるヴァトペディ修道院の修道士となった。しかし1396年にはメテオラに戻っている。1423年2月24日に、大メテオロン修道院で亡くなり、同院に葬られた。ヨヴァンは、最後の「セルビア人とギリシア人の皇帝」であり、テッサリアを統治した最後のセルビア人とされる。妻とのあいだには、コンスタンティン、ミハイロ、ディミトリエ、イェレナ、アサニナの5人の子がいたとされる。

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