伝記
ゾグ1世は、1895年10月8日にオスマン帝国下のアルバニア北部で生まれ、のちにアルバニアの大統領、さらに国王となった人物である。生まれた時の名はアフメト・ムフタル・ベイ・ゾゴッリといい、ブルガジェット城の近くで、ジェマル・パシャ・ゾゴッリの三男として生まれた。「ゾグ」はアルバニア語で「鳥」を意味する。ゾグ家はオスマン帝国のマティ総督を世襲で務めた家系で、マティ族の族長を出す地主層の家柄だった。母方のトプタニ家は、15世紀の民族的英雄スカンデルベグの姉妹の子孫を称していたという。イスタンブールのガラタサライ高校で教育を受け、1911年に父が亡くなると、異母兄を差し置いてマティ地方の長官となった。1912年のアルバニア独立宣言には、マティ地区の代表として加わっている。
第一次世界大戦ではオーストリア=ハンガリー側に志願し、1917年から翌年にかけてウィーンで、1918年から翌年にかけてローマで拘束された。ウィーン滞在中に、西ヨーロッパ風の生活を好むようになったという。1919年にアルバニアへ戻って政界に関わり、1920年に成立したスレイマン・デルヴィナ政権で内相を務めた。1922年に首相兼内相になると、自らの氏族の出身者を憲兵隊などに多く送り込んで政府の実権を握った。このように出身地である北部の氏族を優遇する政策は国内の不満を生み、1924年5月には、正教会主教で作家のファン・ノリを担いだ反ゾグ蜂起が起こった。蜂起は成功し、6月にノリが首相に就任した。ゾグは国外に逃れ、ベオグラードで白軍と接触しながら、帰国の機会を窺った。
12月、ノリ政権がソ連に近づくことを警戒したユーゴスラビアの援助もあって、ゾグは軍を率いて帰国し、首都ティラナを攻略して、ノリを亡命に追いやった。政権を取り戻すと、1925年に共和国を宣言して大統領に就任した。新しい憲法で広範な権限を与えられた彼は、事実上の独裁者となり、イタリアに接近して資金の援助を受けた。1928年9月1日、憲法を改正して王位に就き、トルコ語由来のムスリムの男性名アフメトを名乗るのをやめ、ゾグだけを名前とした。即位後は権威主義体制を敷く一方、民法や刑法の導入などの近代化政策を進めた。当時のアルバニアは氏族社会で、北部と南部では言語や社会環境が大きく異なっていたため、氏族の武装解除やナショナリズムを唱える政策を通じて、均質なアルバニア国民の形成を図った。国王に即位してからはイタリアと距離を置くようになり、両国の関係は緊張した。1938年にハンガリー貴族のジェラルディーネ・アポニー伯爵夫人と結婚し、翌年に男児レカが生まれた。
1939年4月、ファシスト党政権下のイタリアがアルバニアに侵攻すると、ゾグはギリシャへ亡命した。アルバニアの王位はイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が兼ねることになり、傀儡政権が置かれた。ゾグはギリシャからエジプトなどへ移り、復位のために連合国や国内の支持勢力と接触を保ったが、戦後にエンヴェル・ホッジャを指導者とする政権が成立し、1946年に正式に廃位が宣言されると、帰国さえ不可能になった。その後はイギリスやフランスで亡命生活を送り、1961年4月9日にパリ近郊で亡くなった。遺体はティエの墓地に埋葬されていたが、2012年に返還され、アルバニア独立100周年の式典に合わせて再建された王家の霊廟に再び埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ブレーズ・サンドラール (1961年没)
- リヒャルト・シルマン (1961年没)
- ヴァネッサ・ベル (1961年没)
- アンリ・デロージュ (1961年没)
- タイ・カッブ (1961年没)
同じ地域に関係する人物
- エルヴェ・ギベール (1991年没)
- オレ・ヤコブ・ブロッホ (1889年没)
- シャルル・エドゥアール・ギヨーム (1938年没)
- ピエール・サミュエル (2009年没)
- シュリ・プリュドム (1907年没)