HISTORICAL PERSON · 1005年没

安倍晴明

平安時代の陰陽師。花山天皇や一条天皇、藤原道長の信頼を集め、雨乞いの五龍祭なども行った。二人の息子も要職に就き、安倍氏は賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となった。土御門家の祖で、位階は従四位下に昇った。

生涯
1005年没
死亡地
日本(滋賀県 / 日本)
出生地
日本(阿倍野区)
出典
世界地図
日本(滋賀県)

伝記

安倍晴明は、平安時代の陰陽師である。921年2月21日(延喜21年1月11日)に生まれ、1005年10月31日(寛弘2年9月26日)に没した。読みは「せいめい」と音読みされることが多いが、確定していない。官位は従四位下で、のちに陰陽寮を統括する土御門家の祖とされる。

系譜は不詳だが、中級貴族の大膳大夫・安倍益材の子と伝わる。右大臣・阿倍御主人の子孫ともされる。幼少期の確かな記録はなく、陰陽道は賀茂氏の門下で学んだという。天徳4年(960年)、40歳のときには天文得業生であった。その後の経歴には諸説あるが、内裏火災で焼けた霊剣の鋳造の功により、翌応和元年(961年)6月以降に陰陽師に任じられたとする整理がある。天禄元年(970年)に陰陽少属へ進み、翌年には51歳で天文博士を兼ねることが認められた。貞元2年(977年)に賀茂保憲が没したころから陰陽道の世界で頭角を現し、『占事略决』を撰した。

花山天皇の信頼を受け、占いや儀式を行う姿が記録にしばしば見えるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めたことが、道長の日記『御堂関白記』などからうかがえる。正暦4年(993年)2月、一条天皇が急病に伏した際には『小右記』によれば晴明が祭を行って回復し、正五位上に叙された。長保2年(1000年)10月の新造内裏への遷御でも、陰陽寮ではなく晴明自身が儀を奉仕した。寛弘元年(1004年)7月、深刻な干魃のなかで五龍祭を行うと雨が降り、天皇は晴明の力によるものとして褒賞を命じたという。のちに主計権助、左京権大夫、穀倉院別当などを歴任して従四位下に至った。陰陽頭には就かなかったが、位階はその頭より上であった。息子の安倍吉昌と安倍吉平も天文博士や陰陽助に任じられ、安倍氏は晴明一代で賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となった。邸宅は土御門付近にあったとされる。

晴明の名が広く知られたのは、没後およそ100年の12世紀前半、『大鏡』や『今昔物語集』が説話の主人公として描いてからだと考えられている。『今昔物語集』には、幼い晴明が賀茂忠行の供をして鬼を見つけ、才能を認められたという話や、僧の身代わりとなった弟子を泰山府君祭で共に助けた話がある。式神を家事に使い、人もいないのに門が開閉したという話や、仁和寺で公卿たちにせがまれ、術で手を触れずにカエルを押し潰したという話も伝わる。『大鏡』には、花山天皇が出家のため寺へ向かう途中で晴明の家の前を通ると、天皇退位を示す天変があったとして式神に参内を命じる声が聞こえたとある。『古事談』には、花山天皇の頭痛を、前世の髑髏が岩の隙間に挟まっているためと見抜いて治した話がある。『宇治拾遺物語』には、カラスの正体が式神だと見破って蔵人少将の呪いを解いた話や、呪いをかけた道摩法師を式神で見つけ出した話があり、『源平盛衰記』には、十二神将の式神を一条戻橋の下に隠していたとある。この時期は陰陽道といえば賀茂氏とみなされ、安倍氏は不振であったため、晴明流の安倍氏が祖先の顕彰に努めたと推測されている。

晴明を祭神とする晴明神社や、各地の晴明塚、伝承の地が今も残る。男系の血脈は江戸時代に絶えたが、土御門家と倉橋家は養子によって続き、女系を通じて皇室にも血脈が伝わるとされる。夢枕獏の小説『陰陽師』以後は、天才的な占い師や魔術師として様々なメディアに登場している。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物