HISTORICAL PERSON · 1962年没

ウィルヘルミナ (オランダ女王)

10歳で即位して1948年に娘ユリアナへ譲位するまで58年在位したオランダ女王。以後3代続く女王の治世の先頭に立った。

生涯
1962年没
死亡地
オランダ(ヘルダーラント州 / ヘット・ロー宮殿)
出生地
オランダ(ノールダインデ宮殿)
出典
世界地図
オランダ(ヘルダーラント州)

伝記

ウィルヘルミナは、1880年8月31日にハーグのノールドアインデ宮殿で生まれた、第4代のオランダ国王(女王)である。ウィレム3世と後妻の王妃エンマの長女で、ウィルヘルミナ・ヘレナ・パウリーネ・マリアと名付けられた。父は彼女が生まれたとき63歳で、両親、とくに父と近しい関係で育った。父には最初の王妃ソフィーとの間に3人の王子がいたが、次男は幼くして亡くなり、長男の王太子ウィレムは彼女が生まれる前年に39歳で逝去した。三男のアレクサンダーも1884年に病死し、異母兄たちには嗣子がなかったため、彼女は4歳で王位継承者となった。1890年11月23日に父が崩御すると、10歳で女王に即位し、成人までは母のエンマが摂政を務めた。1895年にイギリスを訪れた際、ヴィクトリア女王は日記に、「とても聡明で魅力的な子ども」と記している。

1898年8月、18歳の成人とともに母は摂政を退き、親政が始まった。これに先立つ4月には、ヴィクトリア女王から、外国の女性君主に与えていたロイヤル・ヴィクトリア・アンド・アルバート勲章を授けられた。気性が強く、思ったことをはっきり言う女性で、政治家を「嫌い」、国民への愛を語ったという。当時、ボーア戦争でのイギリスの併合に反感を抱くオランダの世論を映し、ボーア人に親近感を示し、巡洋艦を送ってクリューガー大統領の脱出を助けた。1901年にメクレンブルク公ハインリヒと結婚したが、のちには不幸な結婚となり、夫には多くの不貞があったとされる。死産や流産を繰り返し、育ったのは1909年に生んだ長女ユリアナだけだった。ユリアナの夫はプロテスタントの信徒でなければならず、王配探しは難航したが、1937年にドイツのリッペ=ビースターフェルト侯子ベルンハルトと結婚した。第一次世界大戦では辛くも中立を守った。1938年5月には親政40年の祝典が行われた。

1939年9月に第二次世界大戦が始まり、オランダは中立の維持を探ったが、1940年5月10日、宣戦布告のないままドイツ軍の攻撃を受けた。期待した英仏軍の来援はなく、5月14日にロッテルダムが爆撃され、17日に占領が完了した。5月13日の早朝、彼女は英国王ジョージ6世に直接連絡して空軍の来援を求め、女王の捕縛を命じられたドイツの部隊から30分差で逃れて、同日午後、駆逐艦でイギリスへ亡命した。当初はオランダへの帰還と抗戦を訴えたが、英国側の説得でロンドンに亡命政府を樹立し、ラジオを通じて国民に語りかけ、レジスタンスの精神的支柱となった。1944年6月のノルマンディー上陸作戦を経て、9月にアントワープなどが解放されると、英国は女王の帰国を許可した。ガーター勲章が授与されることも発表され、これは外国の女性君主に与えられた初の例である。1945年5月にドイツが降伏し、1946年7月には戦中の支援に感謝するため訪英した。

戦後は、派手な式典を好まなかったこともあり、王室への人々の好印象は薄れていった。オランダ領東インドは1945年8月17日に独立を宣言して独立戦争が起こり、国際的な批判も高まった。心身ともに疲弊した女王は退位の意思を表明し、1948年9月4日、即位式から50年を期して長女ユリアナに王位を譲った。在位は58年近くに及び、オランダ史上最長だった。以後はヘット・ロー宮殿で過ごし、1962年11月28日に亡くなった。

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