HISTORICAL PERSON · 991年没

テオファヌ

神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后。東ローマ帝国出身で、宮廷に食卓用フォークなど東ローマの文化をもたらし、夫の死後は幼いオットー3世の摂政を務めた。

生涯
991年没
死亡地
オランダ(ヘルダーラント州 / ナイメーヘン)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
オランダ(ヘルダーラント州)

伝記

テオファヌは、神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后となった東ローマ帝国の皇族の女性である。ギリシャ語名のテオファノやテオファニアという表記もある。960年ごろ、東ローマの首都コンスタンティノープルで生まれたとされる。出自には諸説があり、東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの姪といわれるほか、ロマノス2世と皇后テオファノの娘という説もある。父をコンスタンティノス・スクレロスとし、母方ではフォカス家につながる人物だったとする説明もあり、婚姻契約書では皇帝の姪にあたる者として記されている。

当時、キリスト教世界ではビザンツ帝国とオットー家が、ともにローマの継承者を自任して並び立っていた。オットー1世は同盟のしるしとして、東ローマの皇女を息子オットーの妃に迎えることを求めた。話がまとまるまでには、コンスタンティノープルへ何度も使節が送られたという。971年の末にはケルン大司教ゲロの率いる使節団が到着した。ツィミスケスは北にブルガリア人、東にイスラム勢力を抱え、南イタリアではオットー1世の圧力も受けていたため、姪を託すことに同意したとされる。一行は972年の冬のうちに出発した。

2人は972年4月14日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で教皇ヨハネス13世の立ち会いのもとで結婚し、テオファヌはその日のうちに皇后として戴冠した。花嫁は期待された皇帝の実の娘ではなかったため、コンスタンティノープルへ送り返そうとする者もいたが、オットー1世は自分の選択を変えなかったと伝えられる。このとき彼女は12歳ほどだった。結婚に際して夫から与えられた財産を記した契約書は、いまもヴォルフェンビュッテルの文書館に保存されている。

結婚後、宮廷は旅するようにドイツへ戻り、新しい皇后が披露された。彼女は山越えを含む数千キロを旅して、3月初めにクヴェードリンブルクの帝国修道院に着き、復活祭の祝いと帝国議会の準備にあたった。この議会にはポーランド公やボヘミア公、ビザンツやハンガリーなどの使者が集まり、オットー1世の権勢が頂点にあることを示した。ところがまもなく老帝は病で急死し、あとには42歳の未亡人アーデルハイト、12歳か14歳の若い皇后、18歳の皇帝が残された。新しい皇帝夫妻はヴォルムスなど各地で会議を開き、権力の基盤を固めていった。彼女は夫の遠征には自ら同行し、統治でも隣で采配を振ったといわれる。彼女がもたらした東ローマの文化は宮廷を華やかにし、手づかみで食事をしていた西ヨーロッパに、食卓用のフォークを伝えたことはよく知られている。一方、夫の生母である義母のブルグントのアーデルハイトは彼女を好まず、その死を聞いて大喜びしたという。夫婦のあいだには5人の子が生まれ、アーデルハイト、ゾフィー、マティルデ、のちのオットー3世、そして生後3か月で亡くなった女児がいた。

983年にオットー2世が死去してローマに葬られると、テオファヌは幼いオットー3世の摂政を務め、991年まで単独で政務をとった。991年、ネーデルラントのナイメーヘンで世を去り、ケルンに葬られた。外国から嫁いだ皇女でありながら、皇后として、また摂政として、中世ヨーロッパの政治の中心に立った人物である。夫のかたわらで11年、夫の死後は摂政として7年、帝国の統治に携わったとされ、中世ヨーロッパで最も影響力のあった君主の一人にも数えられる。

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