伝記
黎利は、後黎朝大越の初代皇帝である。レ・ロイともいう。1385年9月10日に生まれ、1433年9月5日に没した。在位は1428年から1433年まで、廟号は太祖、諡号は高皇帝である。明の支配に対する藍山蜂起を率いて大越を独立させ、ベトナム史上屈指の英雄とされる。
清華の藍山の豪族の家に生まれた。そのころ、陳朝では外戚の胡季犛が帝位を奪って胡朝を開いたが、やがて明が侵攻して胡朝は滅び、安南は明の直接支配を受けることになった。この時期の黎利の対応は、大越側の史料と明側の史料とで食い違う。大越側では、官爵による懐柔にも脅迫にも惑わされず、旧陳朝の残存勢力による抵抗に見込みがないと見て、自ら山林に逃れて避難民を結集したとされる。明側では、表向きは明に降り、巡回しながら、実は反乱を企てていたと記される。
各地の豪傑と関係を強め、流民をまとめたのち、1418年2月に故郷の藍山で「平定王」を称し、のちに重臣となる阮廌や、将軍の黎柳らとともに、明への武装抵抗を始めた。1416年とする記述もある。明の将軍馬騏の軍を待ち伏せで退けたが、兵が少なく、至霊山で明軍に包囲された。「身代わりになる者はいないか」と尋ねると、旗揚げ仲間の1人が名乗り出て、その犠牲によって包囲を破った。1422年12月には明軍に大敗して包囲を受けたが、孫子の兵法の言葉を引いて兵を奮い立たせ、明の将軍を撃退した。ただ、至霊山に戻った軍は2か月近く飢え、黎利は象や馬を屠って振る舞い、脱走兵を処刑して綱紀を保った。兵が疲れて和睦を求めたため、明軍と形式上の和睦を結び、1423年夏に藍山に帰還した。明の陳智が多くの牛馬や穀物を送って懐柔を試みたが、黎利は金銀を持たせた使者を送って返した。陳智が使者を抑留すると、黎利は怒り、徹底抗戦を誓った。この冬には、子の黎元龍(のちの太宗)が生まれた。
1424年冬、明に仕えていた地元の琴彭に帰順を呼びかけて断られ、柵山の城を包囲した。この後の琴彭については、大越側の史料では降伏したあと謀反を起こして誅殺されたとされ、明側の史料では救援が間に合わず陥落して処刑されたとされる。続けて乂安の攻略に取りかかり、西都城を陥落させた。1426年8月には、明軍の精鋭が乂安城に集まっていることを見て、東都周辺の拠点を各地に派遣した精鋭に攻めさせ、乂安城も制圧した。同年10月に、明は王通を指揮官に5万の兵を送り、現地の兵と合わせて10万にのぼった。11月、黎利は陳朝の後裔を称する陳暠を擁立し、天慶帝とした。12月には兵士に略奪を禁じ、自ら監督して東都城を攻めた。明軍は敗戦に疲れ、撤退を条件に和平を求めた。
1427年9月、明は柳升に10万の兵を与えて派遣した。黎利は戦闘中の兵を引き上げて敵を引き込み、支棱の沼地で強襲し、柳升を戦死させた。11月22日、東都城の南で明軍と会盟して講和が成立し、王通らは本国へ帰還した。1428年1月に陳暠が死去し、4月15日、黎利は昇龍城で皇帝に即位して後黎朝を開き、国号を大越とした。阮廌らの補佐のもと、均田制や科挙制を導入し、法典の整備に取り組んだ。明との関係修復も図ったが、陳暠を殺害したことなどへの反発から、生前は安南国王に封じられず、「権署安南国事」に任じられただけだった。1433年に没し、黎元龍が跡を継いだ。魔剣「順天剣」の伝説が残る。湖の精霊から授かった剣で、これで明に勝ち、戦後は湖に返されたため、その湖は還剣湖と呼ばれるようになったという。
同じ年に亡くなった人物
- バイスングル (シャー・ルフの子) (1433年没)
- ジャンヌ・ド・フランス (1391-1433) (1433年没)
- チャンディーダース (1433年)
- 後小松天皇 (1433年没)
- ジョアン1世 (ポルトガル王) (1433年没)
同じ地域に関係する人物
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- レ・ドゥク・ト (1990年没)
- 阮廌 (1442年没)
- ヴォー・グエン・ザップ (2013年没)
- Joseph-Marie Trinh Nhu Khue (1978年没)