伝記
ケネス3世(キナエド・マク・ドゥイブ、現代ゲール語ではコインネク・マク・ドゥイヴ)は、997年から1005年までアルバ(スコットランド)の王であった。1005年3月25日に没した。父はドゥブ(ドゥブ・マク・マール・コルイム)である。「アン・ドン」(「首長」または「茶色の者」の意)というあだ名で呼ばれた。スコットランド側の史料の多くは彼を「ケネスの子でドゥブの孫、ギリク」と記すが、これは誤りとみなされている。別の説明として、ケネスにはギリクという息子がいて、父と共同で統治したとも考えられている。
ギリクについては、1251年と1317年の年代記の記載が主な史料であり、14世紀のジョン・オブ・フォーダンの年代記は、「グリム」または「グリーム」の名で、マルカム2世に殺されたと伝える。それ以前の史料には名が見えず、実在そのものが疑問視されている。ジョン・バナーマンは、ケネス3世の父称「マク・ドゥイブ」がダフやマクダフという姓に変わり、ケネスがマクダフ氏族の直系の祖先だった可能性を論じた。この氏族は11世紀から14世紀半ばまでファイフの大守や伯を出した家である。バナーマンはギリクが実際の家祖かもしれないとも述べている。
治世に報告される出来事はほとんどなく、999年に「四人の師の年代記」が、ドゥンガル・マク・キナエダがギレ・コエムガイン・マク・キナエダに殺されたと記すのみである。これがスコットランドでの出来事か、二人がこのケネスの子かどうかは分からない。
ケネス3世は、1005年3月25日ごろ、ストラサーンのモンジエヴァードの戦いで、王マルカム2世(マール・コルイム・マク・キナエダ)に討たれた。ボイテ・マク・キナエダがこのケネスの子かどうかは不確かだが、多くはそうだと考えている。ボイテの娘グルオク(シェイクスピアのマクベス夫人)は、最初にモレーの大守ギレ・コエムガインの妻となり、のちにマクベス王の妻となった。ギレ・コエムガインとの子ルラーハは、マクベスの跡を継いで王となった。ボイテの子か孫にあたる人物は、1032年にマルカム2世に殺されたと「アルスター年代記」に記されている。ウイレムの子孫たちもケネスの血を引く可能性が高いとされ、マッケイ氏族はルラーハの娘を通じてケネス3世の子孫を称している。
10世紀のスコットランドでは、コンスタンティヌス1世の系統と、その弟アエドの系統とが王位を争った。995年から997年に在位したコンスタンティヌス3世はアエド系の最後の人物とされる。その死でこの対立は、ともにコンスタンティヌス1世に連なる二つの新しい王家の争いに替わった。一つはケネス2世の子マルカム2世が代表する系統、もう一つはケネス2世の兄弟で962年から967年に在位したドゥブの系統であり、ケネス3世はこちらを代表した。
同じ年に亡くなった人物
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