伝記
アル=マクリーズィーは、マムルーク朝時代のエジプトの歴史家であり、伝記作家である。1364年にカイロの学者の家に生まれた。家はシリア出身で、ダマスカスから移り住んで間もなかったという。マクリーズィーという呼び名は、父方の祖父母の出身地であるバールベックの一区画にちなむ。預言者ムハンマドの子孫を自称し、カリフ・アリーの子フサインの末裔に連なる家系だと主張していた。また、親しい友人には、エジプトにカイロを築いたファーティマ朝の初代カリフにさかのぼる血筋だと打ち明けたとも伝えられる。法学はハナフィー派とシャーフィイー派を学んだのち、ザーヒル派へ移った。1382年には、カイロを訪れたイブン・ハルドゥーンの講義を聴いて、大きな衝撃を受けた。以来、ハルドゥーンを「我らが師」と呼び、多くの学問を教わった。1385年には、メッカへの巡礼に出た。
マクリーズィーは、最初は政府の公文書係を務め、1399年には市場の監督官に任じられた。この職はまもなく辞して、モスクの説教師、マドラサの教師を歴任した。1404年にペストが流行すると、これをきっかけにエジプト社会の救済を論じる書を著した。1408年にはダマスカスに移り、ヌーリー病院の管理業務のかたわら、マドラサで歴史学や伝承学を講義した。1417年にカイロに戻ると、公職を辞して、著述に専念した。隠棲後は、亡くなるまで他人を訪ねることもほとんどなかったと伝えられる。1430年には、家族とともに再び巡礼に出て、およそ5年間旅をした。1442年に、生まれ故郷のカイロで亡くなり、遺体は町の外の墓地に葬られた。
マクリーズィーの著作は200を超えるとされ、その多くはエジプトに関わるものである。地誌、年代記、伝記から、さまざまなテーマの歴史まで多岐にわたる。小さな論考では、貨幣、遊牧民、巡礼、エチオピアの歴史、ハチなどを扱った。歴史を記すときは、過去の書物からの引用、古老から集めた伝聞、自身の体験の3つを区別した。『エジプト誌』は、イスラーム初期からのエジプトの歴史と地誌を記した書で、イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』に相当する作品として書かれた。序文はハルドゥーンの序文によく似ており、全体を7部に分けている。エジプトの地理、ナイル、租税から、諸都市、フスタート、カイロ、城塞に及ぶ。『諸王朝の知識の旅』は、アイユーブ朝からマムルーク朝にかけての年代記で、死の前年まで書き続けられた。宮廷と戦いの記述に終始する多くの年代記と異なり、経済や都市の生活についての記述が多い。ファーティマ朝の年代記『敬虔なムスリムの忠告』も書いた。
マクリーズィーは、マムルーク朝の抗争やペストの流行による社会・経済の危機に直面した時代を生き、著作に社会の変化を克明に書いた点で、ほかのイスラーム世界の歴史家よりも優れていると評価される。その著作は、エジプト史を研究するうえで重要な資料として使われている。一方で、百科事典のようで内容が乏しいとも評され、同時代の人々からは、先人の著作からの剽窃を批判された。
同じ年に亡くなった人物
- 阮廌 (1442年没)
- カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク (1442年没)
- ピエール・コーション (1442年没)
- エリーザベト・フォン・ルクセンブルク (1442年没)
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1393-1442) (1442年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・ムルシー (2019年没)
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- エヴリヤ・チェレビ (1682年没)
- ワルダ・アルジャザイリア (2012年没)
- ジェデフホル (紀元前2600)