伝記
フィリッポ・ブルネレスキは、イタリアの金細工師、彫刻家であり、ルネサンス最初の建築家とされる人物である。1377年にフィレンツェの公証人の子として生まれ、主にフィレンツェで活動した。幼いころから読み書きと算術のほかラテン語を学んだが家業は継がず、1398年12月に絹織物業組合へ金細工師として登録された。1400年頃までピストイアの工房で働き、サン・ヤーコポ祭壇の半身像などを作ったとされる。冗談や悪ふざけで他人をからかうことを好んだ一方、発想は鋭く、機智に富んでいたという。
1401年、フィレンツェに戻ってサン・ジョヴァンニ洗礼堂の第二青銅扉の制作競技に参加した。課題は「イサクの燔祭」で、最終選考に残ったのはブルネレスキとロレンツォ・ギベルティの作品だった。ヴァザーリは、ブルネレスキがギベルティの作品の優秀さを認め、選考委員を説得したと記す。一方マネッティは、委員が優劣を決められなかったとする。いずれにせよ両者に共同制作が要請されたが、ブルネレスキが辞退し、扉はギベルティが請け負った。1404年には絹織物業組合のマエストロとして登録され、サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の木彫の磔刑像も手がけた。ドナテッロとともにローマに滞在してローマ建築を学び、オーダーを見出したと言われるが、時期を確かめる資料はない。透視図法を最初に用いたのも彼とされ、マネッティらは洗礼堂の眺めを描いた板絵を伝えている。なお生涯妻帯せず、1417年にブッジャーノを養子に迎えた。
1418年8月、大聖堂造営局はサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設のため、機械や足場、工法の設計競技を布告した。問題は、地上から足場を組まずにどうドームを築くかにあった。ブルネレスキはドナテッロらと模型を作り、仮枠なしの二重構造のドーム案を示した。当初は否定的な意見もあったが、彼が別の礼拝堂で仮枠なしにドームを架けたことで信頼が深まったとされる。1420年4月、ブルネレスキとギベルティらが同じ俸給で工事の主任監理者に指名された。ギベルティとの確執から、ブルネレスキが仮病を使って工事に出ず、ギベルティを困惑させたなどの逸話が残る。1423年8月には総監督の肩書きと年俸100フィオリーノが与えられ、1426年にギベルティが年俸3フィオリーノの非常勤に変わると、工事はブルネレスキが一手に担った。1434年に頂上の円環が閉じられ、1436年3月、教皇エウゲニウス4世が献堂式を執り行った。頂上部のランターンは、5人の工匠の模型が審査され、1436年12月にブルネレスキ案が選ばれた。
並行して1419年に捨子保育院の設計を請け負った。1445年に運用が始まったこの施設は、事実上ルネサンス最初の建築物とされる。メディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチの依頼でサン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室も設計したが、聖堂本体は経済不振などで工事が進まなかった。ミラノとの戦争のあいだは、ピサなど支配下の都市で城砦工事にも携わった。晩年に関わったサント・スピーリト聖堂は、1430年代に模型を作ったと考えられるが、資金不足で工事が中断し、最初の円柱が届いたのは1446年4月5日だった。1440年をすぎると活動は限られ、1442年の申告では老齢で働けないと述べている。1446年4月15日の深夜に亡くなり、大聖堂造営局は葬儀を同大聖堂で行うと決め、翌年に葬られた。ランターンの建設は1446年に始まり、彼はそれまでに大理石の加工や機械の準備を済ませ、工事の進め方の遺言まで残していたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ (ヴァンドーム伯) (1446年没)
- マリー・ダンギャン (1446年没)
- ヴィットーリノ・ダ・フェルトレ (1446年)
- ヌーノ・トリスタン (1446年)
- ヴァフタング4世 (1446年没)
同じ地域に関係する人物
- ジーノ・バルタリ (2000年没)
- サルヴァトーレ・フェラガモ (1960年没)
- ロレンツォ・モナコ (1425年没)
- ウォルター・サヴェージ・ランダー (1864年没)
- アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ (1743年没)