HISTORICAL PERSON · 1451年没

ムラト2世

オスマン帝国第6代皇帝(在位1421〜1444、1446〜1451)。1444年にヴァルナの戦いでハンガリー軍に勝ち、子メフメト2世に一時帝位を譲った。

生涯
1451年没
死亡地
トルコ共和国(エディルネ県 / エディルネ)
出生地
トルコ共和国(アマスィヤ)
出典
世界地図
トルコ共和国(エディルネ県)

伝記

ムラト2世は、1404年6月にアマスィヤで生まれたオスマン帝国の第6代皇帝である。父は第5代皇帝メフメト1世、母はエミネ・ハトゥンといった。幼いころはアマスィヤで過ごしたが、その時期は父とその兄弟たちがオスマン家の帝位を争った空位時代にあたる。1410年に父とともに首都エディルネに入り、父が即位した1413年以降は、アマスィヤのサンジャク総督に任じられた。1421年に父が没すると、16歳でブルサにおいてオスマンの剣を帯びて即位し、軍や官僚も進んで臣従したという。彼を擁立したのは大宰相チャンダルル・イブラヒム・パシャとその一族を中心とするトルコ系貴族であった。在位は1421年から1444年と、1446年から1451年の二度にわたる。

治世の初めから反乱に悩まされた。父の代のオスマン朝と東ローマ帝国は同盟関係にあったが、代替わりを見た東ローマ皇帝マヌエル2世の子ヨハネス8世は、アンカラの戦いで戦死したと思われていた父の兄弟ムスタファを対立皇帝に擁立し、内政干渉を図った。マヌエル2世は、成功した場合にムスタファが解放の代償として重要な都市を多数割譲するという条件を取りつけていたという。この人物が本物かどうかは不明で、オスマン側では偽ムスタファと呼んで偽物と断じている。ムスタファは一時ヨーロッパ側で勢力を伸ばし、宰相バヤズィト・パシャの率いるムラトの軍を破り、敗れた宰相は斬首されたほどだったが、ウルバト近郊でムラトに忠実な軍に捕らえられ、1422年に処刑された。激怒したムラトは東ローマ帝国との同盟を破棄し、同じ1422年にコンスタンティノポリスを包囲した。東ローマ軍は弱体でオスマン軍の敵ではなかったが、包囲中に東ローマ側が仕組んだとされる反乱が起こったため、ムラトは東ローマの臣従などを含む有利な和睦を結んで軍を返した。若い弟ムスタファも東ローマ側に担がれて反乱を起こしたが、捕らえられて1423年10月に処刑された。アイドゥン、ゲルミヤン、メンテシェ、テケなどアナトリアの諸侯国も、この時期の遠征で併合されたとされる。

その後はカラマン侯国やヴェネツィアとも戦い、1428年にカラマンを破り、ヴェネツィアは1432年に手を引いた。ヴェネツィアはそれまで黒海沿岸などに大きな経済的利益をもち、オスマンと友好的だったが、オスマンがマケドニアからアドリア海へ勢力を伸ばすのを警戒していた。テッサロニキを領有する東ローマの王子たちが防衛できないと申し出て、ヴェネツィアがこれを引き受けたことが開戦のきっかけになった。1444年には、教皇エウゲニウス4世の命でブルガリアに侵攻してきたハンガリー軍とヴァルナで戦って勝った。もともと文化人の気質があり、スーフィーの信仰に熱心だったことから、この年、子のメフメト2世に帝位を譲って隠退した。しかし若いメフメト2世には官僚も従わず、遠征にも失敗し、イェニチェリの反乱も起きたため、1446年にムラトが復位した。

1448年にはコソボの戦いでセルビアなどキリスト教国の軍と戦って再び勝利し、東ローマ帝国を圧迫した。同年、ヨハネス8世の後を継いだコンスタンティノス11世の即位を承認し、和平条約を結んだ。以後もワラキアやアルバニアへの侵攻を進めたが、アルバニアではスカンデルベグの抵抗に遭い、1451年2月3日にエディルネで世を去った。次代は子のメフメト2世で、彼は1453年に東ローマ帝国を滅ぼすことになる。

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