HISTORICAL PERSON · 1451年没

バルバラ・ツェリスカ

皇帝ジギスムントの2番目の妃で、ツェリェ伯ヘルマン2世の末娘。ドラゴン騎士団の創設に深く関与し、夫の不在中にハンガリーの摂政を務めた。第二のメッサリーナと呼ばれるほど評判が悪かったが、功績も多い。

生涯
1451年没
死亡地
チェコ共和国(中央ボヘミア州 / ムニェルニーク)
出生地
スロベニア共和国(ツェリェ)
出典
世界地図
チェコ共和国(中央ボヘミア州)

伝記

バルバラ・ツェリスカは、神聖ローマ皇帝でハンガリー王、ボヘミア王のジギスムントの2番目の妃である。1390年から1395年のあいだに、現在のスロヴェニアにあるツェリェで生まれたとされ、1392年とする記述もある。ツェリェ伯ヘルマン2世と、シャウンベルク女伯アンナの末娘である。1405年にジギスムントと婚約し、結婚は同年の12月ごろとされる。ジギスムントには、先妻マーリアの死で弱まったハンガリー王位の正統性を補う目的があった。バルバラは、父方の血統を通じて、ボスニアのコトロマニッチ家、セルビアのネマニッチ家、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の血を引いていたからである。1409年には、ジギスムントの子のうち唯一人生き残った娘エリーザベトを産んだ。エリーザベトは、のちにローマ王アルブレヒト2世と結婚した。父ヘルマン2世は1410年のタンネンベルクの戦いで、ドイツ騎士団と結んでポーランド王ヴワディスワフ2世を破滅させようとする婿のジギスムントと敵対し、姪の夫ヴワディスワフを支援した。

バルバラは結婚後の生活の大半をハンガリーで過ごしたが、ジギスムントがほかの国々の統治のために留守がちだったため、1412年、1414年、1416年、1418年にハンガリーの摂政を務めた。1412年3月15日には、ジギスムントとともにポーランド王夫妻をケースマルクに招き、8年間有効な平和条約を結んだ。1414年秋には、単身ハンガリーからラインラントに向かってジギスムントと合流し、11月8日にアーヘンでローマ王后として戴冠した。12月24日にはコンスタンツに入り、公会議に同行した。その間のハンガリーの統治は、バルバラが引き受けた。ドラゴン騎士団の創設にも深く関わったとされる。のちの教皇ピウス2世となるピッコローミニによれば、バルバラは夫と同様に愛人を囲っていた。1419年、怒ったジギスムントはバルバラをオラデアに追放したが、1421年には許されて宮廷に戻ったとされる。

1420年にブレスラウの国会に出席し、1424年3月にはクラクフで、新しいポーランド王妃ゾフィアの戴冠式に列席した。1427年7月と1431年10月には、ボヘミアのフス派を厳しく攻撃する声明を出した。1431年にはハンガリーがフス派に攻められ、彼女は自分の城でその報を受けると、大軍を送ってリプトフを救うよう指示した。ただし晩年には、フス派の指導者イジー・ポジェブラトを陰で支えた。1431年からのジギスムントのローマ遠征には同行せず、1433年の皇帝戴冠式には出席しなかった。1437年2月11日、プラハでボヘミア王妃としてようやく戴冠した。

バルバラは、兄フリデリクとその息子ウルリクと共謀し、夫の死後のボヘミア王位を、娘婿のアルブレヒトではなくポーランド王ヴワディスワフ3世に差し出そうとした。陰謀を知ったジギスムントは、1437年12月5日にバルバラをブラチスラヴァに監禁したが、4日後の12月9日に亡くなった。跡を継いだアルブレヒト2世は、バルバラを監視下に置き、全財産を没収して、ハンガリーから出国させた。彼女はポーランドに移り、サンドミェシュを領地として与えられた。1439年にアルブレヒト2世が暗殺されると、争いは消えた。1441年にはボヘミアのムニェルニークに移り、化学やオカルトの研究に晩年を費やした。ペストにかかって、1451年7月11日にムニェルニークで亡くなった。バルバラは、神聖ローマ帝国史上最も裕福な皇后だったといわれ、ジギスムントの死去の時点で28の城と領地をもっていた。

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