伝記
ヘンリー・アガード・ウォレスは、1888年10月7日、アメリカのアイオワ州オリエント近くの農村で、のちに農務長官(1921年から1924年)を務めるヘンリー・キャントウェル・ウォレスの長男として生まれた。母はキャリー・メイである。2人の弟と3人の妹がいた。祖父の「ヘンリーおじさん」はアデア郡の有力な地主で、新聞編集者、共和党の活動家であり、社会福音運動の支持者でもあった。一家は1892年にエイムズ、1896年にデモインへ移り、1894年に農業新聞『ウォレシズ・ファーマー』を創刊して成功し、豊かで政治的な影響力のある家になった。アイオワ州立農科大学の酪農学教授だった父は、人種のために学生寮に入れなかった学生の植物学者ジョージ・ワシントン・カーヴァーを自宅に泊め、感謝したカーヴァーは少年のヘンリーに放課後、植物学と育種を教えた。ヘンリーはとくにアイオワの主要作物トウモロコシに関心を持ち、1904年には、見た目が最も良いトウモロコシが最も収量が多いという農学者の主張を、実験で否定している。1906年に高校を卒業し、アイオワ州立大学で畜産を専攻した。
1910年に卒業してデモインで、父の農業誌のライター兼編集者として働いた(1924年まで)。数学や経済学を農業に生かすことに強い関心を持ち、豚の価格を理解するために微積分を学んだ。統計学者のジョージ・スネデッカーと、相関と回帰の計算法に関する影響力のある論文も書いている。トウモロコシの高収量品種の実験を続け、1915年には市場で第一の品種となるトウモロコシを考案した。彼が設立したハイブリッド種子の会社は、のちにアメリカで最も収益の高い企業の一つとなった。1924年から1929年は同紙の発行者を務めた。父が1924年に没すると共和党から離れ、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン・ルーズベルトを支持した。
1933年にルーズベルトから農務長官に指名され、ニューディール政策を支持して民主党に入党した。農業の余剰を抑え、農村の貧困を和らげる措置をとり、連邦の農業政策を大きく転換させた。1940年9月に農務長官を辞して副大統領候補の指名を受け、同年11月の選挙に勝って、1941年1月から1945年1月まで副大統領を務めた。ウォレスは副大統領としては異例の要職を任されるほどルーズベルトに信頼されたが、進歩的な施策や言動が党内の保守派の反感を買った。1944年にルーズベルトが4選に出馬するときは、党大会に宛てて「私が党員ならウォレスに投票する」というメモを送ったが、保守派はルーズベルトの健康状態を懸念し、さまざまな工作を重ねて、3回目の投票でミズーリ州選出のトルーマンを副大統領候補に決めた。ルーズベルトは、ウォレスを商務長官にして報いた。1944年6月には蔣介石との会談のため重慶を極秘に訪れている。ウォレスは1945年3月から1946年9月まで商務長官を務め、ソ連に対する融和的な政策を訴える演説を行ったため、トルーマンに解任された。
1948年の大統領選挙には、新たに結成した進歩党から出馬し、一般投票の2.4パーセントを得た。共産主義とは立場を異にしたが、戦後の反共運動への同調は拒んだため、容共との非難を受けた。1950年には朝鮮戦争をめぐって進歩党と袂を分かち、1952年の記事ではソ連を「徹底的に邪悪」と呼んだ。その後は農業の改良に力を注ぎ、ハイブリッドのトウモロコシの種子と改良した鶏の開発と販売で成功した実業家になった。1965年11月18日、筋萎縮性側索硬化症のため死去した。
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