伝記
サイイド・クトゥブは、1906年10月9日、上エジプトのアシュート県にあるムーシャ村で生まれた作家・詩人・教育者で、イスラム主義の思想家である。父は地主で、一族の領地の管理者でもあり、毎週集会を開いて政治を論じることで地元では知られていた。幼い頃からクルアーンの朗誦の美しさに魅せられ、独学で学んで10歳でクルアーンをすべて暗誦した。本を集める早熟な子どもで、シャーロック・ホームズの物語や『千一夜物語』、占星術や魔術の書も読んだ。十代になると、イスラムの教義しか教えない学校や、世論を形成する宗教機関に反発し、イマームへの反感を募らせた。
1929年にカイロの高等師範学校ダール・アル・ウルームに入学し、1933年に卒業した。その後はアラビア語の教師を務めながら著述活動を行い、小説『とげ』などを書いて、文芸批評家としても活動した。無名だった小説家ナギーブ・マフフーズを世に出す手助けもしたという。1939年にはエジプトの教育省の役人となった。1940年代初めにアレクシス・カレルの著作に触れ、西洋文明の批判に大きな影響を受けたとされる。1948年、教育制度の調査のためにアメリカへ派遣され、コロラド州の大学で数か月学び、スタンフォード大学など各地の学校に通い、国内を旅した。この間に最初の宗教的社会批評の理論書『イスラームにおける社会正義』が出版された。呼吸器の病気など健康に恵まれず、内向的で孤独、うつ状態のときが多かったという。
帰国の途上でヨーロッパも旅し、『私が見たアメリカ』を出版した。そこでアメリカの物質主義、個人の自由、人種差別、スポーツへの熱狂、性的な退廃、イスラエルへの肩入れなどを辛辣に批判した。アメリカ文明は激しすぎて原始的に思われ、信仰や美や精神的価値に不誠実だと結論づけ、この経験が西洋文明の拒絶とイスラム主義へ進む動機になったとされる。帰国すると教育省を辞め、1950年代にムスリム同胞団に加わり、機関紙の編集長を経て、最高会議の一員となりプロパガンダの責任者を務めた。1952年にナーセル率いる自由将校団がクーデターで親西欧的な政権を倒すと、クトゥブは立憲君主制の崩壊を歓迎した。しかしナーセルが同胞団の望んだイスラム国家の樹立へ向かわず、共闘は破綻し、1954年に同胞団はナーセル暗殺未遂事件を起こした。弾圧が進められ、クトゥブも投獄されて、最初の3年間は激しい拷問を受けたという。
やがて多少の自由が与えられると獄中で著述を進め、最も重要な思想書二冊を書いた。注釈書『クルアーンの陰で』と、イスラム主義の宣言書『道標』である。『道標』では、地上の社会はシャリーアが完全に実行されるイスラム社会か、そうでないジャーヒリーヤ社会のどちらかであり、現存する社会はすべて後者だと論じた。1964年にイラク大統領の後ろ盾で釈放されたが、8か月後の1965年8月に再び逮捕され、国家転覆を謀った容疑で裁判にかけられた。ナーセル暗殺計画の首謀者として死刑を宣告され、1966年8月29日に絞首刑に処された。のちには、要人暗殺の計画への関与はなかったことが明らかになったとされる。弟ムハンマドが思想を広め、その影響は今日のイスラム過激派にも及ぶとされるが、本人がテロや暴力を肯定したことはなかったという見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- ヘレン・メンケン (1966年没)
- クリスティアン・アーチボルド・ハーター (1966年没)
- フランク・オコナー (1966年没)
- ヘレン・ケイン (1966年没)
- バド・パウエル (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- アル・タハウィ (933年没)
- バドル・アル=ジャマーリ (1094年没)
- Al-Salih Ismail (1345年没)
- ファティア・エンクルマ (2007年没)
- シェリーフ・イスマイール (2023年没)