伝記
マーガレット・ヒギンズ・サンガーは、1879年9月14日にニューヨーク州コーニングで、マーガレット・ルイーズ・ヒギンズとして生まれた、アメリカ合衆国の産児制限活動家、看護師、作家である。両親ともアイルランド系で、母アンは敬虔なカトリック信者、父マイケルは石工で無神論者だった。母は、結核と頸部の癌のため49歳で亡くなるまでに、18回妊娠して11回出産した。マーガレットは11人の子の6番目で、せわしい家庭で幼年期を過ごした。姉に学費を出してもらい、寄宿制の学校に通って医師を志したが、経済的に続けられなくなった。帰宅して、ニューヨーク郊外の病院付属の看護学校に通い始めた1899年に、母が亡くなった。1902年にユダヤ人建築家のウィリアム・サンガーと結婚した。
1912年の大火で自宅が焼け、一家はニューヨーク市へ移った。サンガーはマンハッタン東部のスラム街で訪問看護師として働き、ニューヨーク社会党の女性委員会に加盟した。労働者階級の移民女性たちを看護するなかで、望まない妊娠を避ける方法を知らないために、出産や流産、自発的な中絶を繰り返す女性たちに出会った。避妊に関する情報は、1873年の連邦コムストック法や多数の州法により、わいせつを理由に禁じられていた。女性を望まない妊娠から解放することでこそ、根本的な社会変革が起こると信じるようになった。
貧しい女性に「家族制限」というパンフレットを配り続け、コムストック法違反で何度も投獄された。1913年に夫と離婚し、1914年には産児制限の普及を目的とした新聞「女性反逆者」を始めた。1916年10月16日、ブルックリンに家族計画と産児制限の診療所を開設した。この種の施設としてはアメリカで最初のものだったが、官憲の不興を買い、猥褻郵便物を送った疑いで逮捕された。起訴を逃れるためヨーロッパに渡り、翌年に帰国して活動を再開すると、機関誌「産児制限レビュー」を立ち上げた。性について率直に書いた「全ての娘が知るべきこと」(1916年)と「全ての母が知るべきこと」(1917年)は、多数の読者の激昂を買う一方、絶賛する声も多かった。
診療所の有罪判決に対する控訴により、医学的理由の処方であれば医師を免除する1918年の判決を得て、この抜け穴を利用するため、1923年に臨床研究局を設立した。これはアメリカ初の合法的な産児制限診療所だった。1921年にはアメリカ産児制限連盟を設立している。1922年に石油王のジェームス・スリーと結婚した。1948年には国際家族計画委員会の設立に尽力した。同委員会は1952年に国際家族計画連盟へ発展し、サンガーは初代会長を80歳になるまで務めた。1950年代初頭には、慈善家のキャサリン・マコーミックに資金提供を促し、経口避妊薬の開発につなげた。
日本の産児制限運動はその思想に強く影響を受けた。1920年にニューヨークの自宅で男爵夫人の石本静枝と出会い、石本の招待で、1922年に改造社の招きにより初来日した。内務省に講演を禁じられ、持参のパンフレットを押収されたが、京都市医師会主催の専門家向け講演は許され、山本宣治が通訳を務めた。この訪日は、日本の家族計画運動の端緒となった。その後も来日を重ね、1954年には厚生大臣に妊娠中絶の多さを嘆き、家族計画政策を求めた。1966年9月6日、アリゾナ州で心不全のため死去した。享年87歳。死の数か月前に、避妊具の利用法の指導を禁じた州法を違憲とする判決が出されており、50年に及ぶ闘いの頂点となった。
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