伝記
張勉(チャン・ミョン)は、1899年8月28日にソウルの鍾路積善洞で生まれた大韓民国の政治家、外交官である。号は雲石で、カトリック教徒であり、洗礼名はヨハネといった。父は仁川の海関(税関)に勤めた張起彬で、一家は仁川で幼少期を過ごした。弟の張勃はソウル大学校の初代美術大学長、もう1人の弟は航空工学者であり、インテリの家系であった。妹のアグネタ張貞温は、平壌の修道院の院長修道女を務めたが、朝鮮戦争中に平壌付近で殉教した。張勉は1916年に結婚し、6男3女をもうけた。水原の農業高校を1917年に卒業し、1919年の三・一独立運動のデモに参加したが、逮捕を免れている。
1921年1月、弟の張勃とともに、アメリカのカトリック宣教会の支援を受けて渡米し、同年9月にマンハッタン・カトリック大学に入学した。急性虫垂炎のため1年間休学したが、1925年7月に卒業し、朝鮮の殉教者79人の列福式に出るためイタリアへ向かい、教皇ピウス11世に謁見している。帰国後は、平壌教区の信徒の指導者や、カトリックの用語を朝鮮語に訳す仕事に携わり、1931年にソウルへ移って東星商業学校の教師となった。のち同校の校長にもなっている。日本統治時代には、創氏改名により玉岡勉と名乗ったこともあった。
1945年に日本の敗戦による解放を迎えると、カトリック勢力の代弁者として後押しされて政界入りを決意し、1948年の5・10選挙で制憲議会議員に選ばれた。その卓越した英語力を買われ、外交官に転じた。同年12月にパリで開かれた第3回国連総会に、韓国代表団の首席として参加し、朝鮮半島における唯一の合法政府としての承認を取り付けた。李承晩大統領に重用され、1949年には初代駐米大使に任命された。朝鮮戦争の勃発時には、アメリカと国連が韓国の自由を守るよう懇願して、国連軍の派兵を実現させた。しかし持病の肝炎で入院し、1955年まで政治活動を停止した。
1955年に民主党が旗揚げされると、これに加わった。1956年の大統領選挙では副大統領候補となったが、同党の大統領候補、申翼熙が遊説中に急逝した。大統領には与党自由党の李承晩が当選したものの、正・副大統領は別々に選ばれたため、副大統領選挙では張勉に約20万票差で票が集まって当選した。しかし権力らしい権力を振るう機会はなく、幽閉されているのに近い状態に陥った。同年9月には狙撃事件にも遭っている。1960年、大規模な不正選挙に怒った学生や市民による四月革命で李承晩政権は崩壊し、議院内閣制の第二共和国に移行すると、張勉は首相に就任した。大統領は尹潽善だが、首相に実権があった。カトリック信者として金大中の代父を務め、金との関係も深かった。
しかし与党民主党の新派と旧派の内紛で政権基盤は弱まった。1960年8月には、北朝鮮の金日成首相が連邦制による統一案を提唱したが、張勉はこれに応じなかった。就任翌年の1961年5月16日、朴正煕を中心とする軍人がクーデターを起こし、18日に張勉内閣は戒厳令を承認して総辞職した。1962年3月に政治活動浄化法で政治活動を禁じられ、1966年6月4日に肝炎で亡くなった。クーデターの際に一時姿を見せず、女子修道院に身を隠したことなどが批判され、評価は低いが、その真相は解明されていない。日韓国交正常化交渉を再開し、独自の経済開発計画の作成に着手したことを評価する見方もある。1999年に金大中大統領から、建国功労勲章が追贈された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・デュアメル (1966年没)
- ディートリヒ・フォン・コルティッツ (1966年没)
- 桜沢如一 (1966年没)
- ジョージ・グールディング (1966年没)
- アルベルト・ジャコメッティ (1966年没)