伝記
ジョージ・ガモフは、1904年3月4日にロシア帝国領のオデッサ(現在のウクライナ)で生まれた、アメリカの理論物理学者である。ロシア語の名はゲオルギー・アントノヴィッチ・ガモフという。父は中等学校でロシア語と文学を、母は女学校で地理と歴史を教えていた。ロシア語のほか、母からフランス語を、家庭教師からドイツ語を学び、大学時代に英語を覚えて流暢に話すようになった。初期の論文の多くはドイツ語かロシア語だったが、のちには専門の論文にも一般向けの著作にも英語を用いた。オデッサの物理数学研究所に学び、1923年からはレニングラード大学に学んで、アレクサンドル・フリードマンに師事した。1925年にフリードマンが早世して、博士論文の指導教員を変えることになった。大学ではレフ・ランダウらと友人になり、量子力学の画期的な論文を議論する「三銃士」というグループをつくった。
卒業後はゲッティンゲンで量子論に取り組み、1928年に放射性原子核のアルファ崩壊に初めて量子論を応用した。アルファ粒子が原子核の周りのポテンシャル壁をトンネル効果で透過する現象だとする理論を立て、それまで実験的に知られていたガイガー・ヌッタルの法則を導いた。1929年にレニングラード大学で博士号を取得し、ゲッティンゲン、ケンブリッジ、コペンハーゲンを経て、1931年にレニングラードに戻った。ケンブリッジではラザフォードのもとで研究し、コペンハーゲンの理論物理学研究所では、原子核の「液滴模型」を提案した。1931年には28歳でソ連科学アカデミーの通信会員に選ばれたが、同じ年に学会への出席を認められず、結婚した妻とともに、ソ連を出る機会を2年近く探した。1933年にロシアを離れて妻とアメリカに渡り、1934年からジョージ・ワシントン大学の教授を1956年まで務めた。
1948年には、ラルフ・アルファー、ハンス・ベーテとの共著論文で、宇宙の核反応の段階に関するアルファ・ベータ・ガンマ理論を発表した。ベーテは実際には研究に関わっておらず、ガモフが語呂のよさからベータの名として共著者に加えたものだという。同年、この理論を元に「火の玉宇宙」の考えを発表し、ジョルジュ・ルメートルの膨張宇宙論を支持して、宇宙背景放射の存在を予言した。予想値は5ケルビンだったが、測定の困難さから、検出を目ざす努力はなされなかった。1965年に約3ケルビンの宇宙背景放射が偶然に発見され、ビッグバン理論の優位が確定的になった。1950年代には生物学、とくに遺伝情報の研究に傾倒した。DNAの塩基配列3つの組み合わせがアミノ酸の情報になると予想し、コドン研究の先駆けとなった。ワトソンやクリックらと1954年に結成した社交クラブは、研究者が交流しアイデアを交わす場となった。
『不思議の国のトムキンス』をはじめ、難解な物理理論を一般向けに解説した啓蒙書を数多く著した。1956年にユネスコからカリンガ賞を受け、1965年にはケンブリッジのチャーチル大学の海外フェローに選ばれた。1968年8月19日に亡くなるまでコロラド大学で教え、著作を続け、同大学の物理学科の塔に名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- アレクセイ・クルチョーヌイフ (1968年没)
- ティモシー・エイハーン (1968年没)
- 藤田嗣治 (1968年没)
- ウィージー (1968年没)
- ケイ・フランシス (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- スコット・カーペンター (2013年没)
- ハンター・S・トンプソン (2005年没)
- ジョー・コッカー (2014年没)
- シドニー・チャップマン (1970年没)
- デール・ガードナー (2014年没)