伝記
ジム・クラークは、1936年3月4日にスコットランドのファイフ半島キルメニーの農家で、4人の姉を持つ末っ子として生まれたレーシングドライバーである。6歳のときイングランドに近いボーダー地方のチャーンサイドへ引っ越し、牧童として働きながら草レースのチームで活動しているうちに、ロータスの創始者コーリン・チャップマンに見出された。1960年に同チームからF1にデビューし、「フライング・スコット」の異名を取った。
1962年には、バスタブ型のモノコック構造を初めて取り入れたロータス25で、9戦中6回のポールポジションと3度の優勝を挙げた。BRMのグラハム・ヒルとチャンピオンを争ったが、最終戦の南アフリカGPでエンジン部品の脱落によりリタイアし、タイトルを逃した。翌1963年には熟成した25で、10戦中7回のポールポジション、7勝という圧倒的な強さを見せ、初のチャンピオンに輝いた。1シーズン7勝は、1988年にアイルトン・セナが8勝を挙げるまで、最多勝の記録であった。この年ロータスも初のコンストラクターズ・チャンピオンを獲得した。さらにインディ500に初出場し、優勝者に僅差の2位となっている。
1964年は信頼性の低い33などが響いて3戦連続リタイアとなったが、それでも最終戦メキシコGPで残り2周までトップを走り、2年連続のチャンピオンはほぼ決まったと思われた。しかしオイルパイプのトラブルで止まり、タイトルを逃した。1965年はクラークとロータスがレース界を席巻した年となり、インディ500出場のため欠場した第2戦モナコGPを除き、開幕戦から第7戦ドイツGPまですべて優勝して、3戦を残して2度目のチャンピオンが決まった。ロータス38で出たインディ500でもポールポジションから独走優勝し、史上初めてインディ500とF1タイトルの同時制覇を成し遂げた。このインディ制覇は、ミッドシップエンジン車として初の勝利、1916年以来のアメリカ人以外による優勝など、いくつもの「初」を伴った。1966年は規定の改定にロータスが対応できず、1勝にとどまった。
1967年には、ロータスとコスワースがフォードの支援のもとで開発したエンジンを積んだ49でデビュー戦のオランダGPを制し、この年は4勝を挙げた。この年は初期トラブルで5回リタイアし、チャンピオンの座は譲ったものの、通算勝利数を24に伸ばして、ファン・マヌエル・ファンジオに並んだ。1968年1月1日の開幕戦、南アフリカGPで、歴代単独1位となる通算25勝を記録し、チャンピオン最有力候補と見られた。
その年の4月7日、ドイツのホッケンハイムリンクで開催されたヨーロッパF2選手権の第2戦に出場し、第1ヒートの5周目、森の中の右高速コーナーで突然コースアウトして木に激突し、事故死した。当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトがなく、車から放り出されて頭と首の骨を折り、即死状態だった。32歳であった。原因は後輪タイヤのバーストといわれるが、特定されていない。故郷チャーンサイドの墓碑には、レーサーとしての業績の前に「農夫」と刻まれている。
走りは、予選でポールポジションを取り、1周目から後続を引き離して逃げ切る型だった。72戦で25勝を挙げながら、2位は1度しかない。タイヤにやさしい走りで、不調のマシンでも難なく乗りこなしたため、メカニックに、彼が乗るとセッティングが進まないと言わせた。農家の生まれの木訥な性格は、華やかなF1の世界でも変わらず、チャップマンは「いつまでも田舎の兄ちゃん」と評して、その死を深く悲しんだ。
同じ年に亡くなった人物
- マーヴィン・ピーク (1968年没)
- アリ・フアト・ジェベソイ (1968年没)
- フェイ・ベインター (1968年没)
- セルゲイ・ベルンシュテイン (1968年没)
- トリグブ・リー (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- イレーネー・アンゲリナ (1208年没)
- ハンス・フルラー (1975年没)
- ローベルト・フォン・ヴュルテンベルク (1947年没)
- ルートヴィヒ・オイゲン (ヴュルテンベルク公) (1795年没)
- インゲ・ボルク (2018年没)