伝記
アントネロ・ダ・メッシーナは、15世紀ルネサンス期に活動したイタリアの画家で、1430年頃にシチリア島東北部のメッシーナに生まれた。父ジョヴァンニは石工の親方で、母はガリータといい、大理石職人の家の4人の子の一人だった。生涯には不明な点が多く、修業の経緯もはっきりしない。15歳ごろにアルカモの皮なめし親方のもとで3年間働く契約を結んだらしく、ナポリの人文主義者ピエトロ・スンモンテの書簡は、彼をナポリのアントニオ・コラントーニオの弟子と伝えている。この修業は1445年から1455年の間とみられる。当時のナポリには、フランドルやカタルーニャの巨匠の作品が集まっていた。
ジョルジョ・ヴァザーリは「アントネロはフランドルへ旅し、そこで学んだ油彩技法をイタリアに伝えた」と述べたが、これはヴァザーリの創作のようである。アントネロの作品にフランドルの影響が顕著なこと、イタリアで油彩を本格的に用いた最初期の画家であることは認められる。ナポリでヤン・ファン・エイクらの作品に接した可能性が指摘されている。確かな最初の記録は、メッシーナで工房を営んでいた1457年のもので、その年にはレッジョ・ディ・カラーブリアの同信会のために旗を描く注文を受けたが、この作品は失われた。すでにジョヴァンナ・クミネッラと結婚していて、息子ジャコベッロの父でもあったと考えられている。1460年には父がカラブリアの町から小型帆船を借りて、アントネロと家族や使用人を連れ戻させたという記録がある。1461年には、弟ジョルダーノが3年の契約で工房に弟子入りしている。1456年から1473年にかけては主にメッシーナで制作し、のちに理由は不明のままこの町を離れた。
比較的初期の作品と思われる『書斎の聖ヒエロニムス』は、対象の表面と質感の細密描写にフランドル風が見られ、明確で計量的な空間表現にはイタリア風の表現が見られる。ピエロ・デッラ・フランチェスカの影響も指摘される。最もよく知られるのは『受胎告知の聖母』で、通常は聖母と大天使ガブリエルを左右に配する画題なのに、ここに描かれるのはマリアのみで、天使の位置に立つのは鑑賞者だという。後光もユリの花も描かれず、無地の背景に顔と手の表情だけで場面を表した稀有な作品である。ブルッヘのペトルス・クリストゥスらフランドル絵画の影響は、肖像画にも強く及んだ。彼は肖像画でも優れた作品を残し、南ネーデルラントの型に基づく活力に満ちた肖像の典型をイタリアで確立した。
晩年に近い1475年から翌年にかけてヴェネツィアに滞在し、ロンドンのナショナル・ギャラリーの『キリストの磔刑』には1475年の年記があり、ここでの制作とされる。ジョヴァンニ・ベリーニらと交流し、のちのヴェネツィア派に大きな影響を与えた。ヴェネツィア派の初期の重要な画家として、フランドル風の細密描写をイタリア絵画に導入した点でも注目される。1479年、50歳前後でメッシーナで没した。メッシーナの工房は、息子のジャコベッロや甥たちが引き継ぎ、そこで働いた画家たちはアントネロ派と呼ばれる。1979年から1983年までイタリアで発行された5000リラ紙幣には、その肖像が採用されていた。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオ・ロッセリーノ (1479年)
- ルチアーノ・ラウラーナ (1479年没)
- マルガレーテ・フォン・バイエルン (1442-1479) (1479年没)
- フアン2世 (アラゴン王) (1479年没)
- ムスタンジド (1479年没)
同じ地域に関係する人物
- フェデリーコ3世 (シチリア王) (1377年没)
- Pietro Carrera (1647年没)
- アルフォンソ2世 (ナポリ王) (1495年没)
- ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝) (1197年没)
- ディカイアルコス (紀元前280)