HISTORICAL PERSON · 1197年没

ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)

ホーエンシュタウフェン朝のローマ王で、1191年に神聖ローマ皇帝となる。コンスタンツェと結婚し、1194年にシチリア王国を征服して王位に就いた。引き渡されたリチャード1世を銀15万マルクで釈放した。

生涯
1197年没
死亡地
イタリア共和国(メッシーナ県 / メッシーナ)
出生地
オランダ(ナイメーヘン)
出典
世界地図
イタリア共和国(メッシーナ県)

伝記

ハインリヒ6世は、ホーエンシュタウフェン朝の第3代ローマ王(ドイツ王)で、のちに神聖ローマ皇帝、さらにシチリア王となった人物である。1165年、皇帝フリードリヒ1世と妃ベアトリクスの次子としてナイメーヘンに生まれた。1169年6月、4歳でバンベルクでローマ王に戴冠された。ラテン語をよく学び、教会法とローマ法にも通じ、詩人の保護者であるとともに自らも詩を作ったと伝えられる。1184年5月には、マインツで開かれた聖霊降臨節の帝国集会で、弟のシュヴァーベン公フリードリヒとともに騎士に叙された。この集会は贈り物が配られ、騎士たちの馬上試合も催される華々しいものだった。

同じ1184年には、シチリア王女コンスタンツェとの結婚が取り決められた。縁談は1180年ごろから進められており、1186年1月、かつて反皇帝派都市の筆頭格だったミラノのサンタンブロージョ教会で挙式した。教皇領を南北から挟む二つの大国が結びつくことになり、ローマ教会にとっては重大な危機であった。1189年6月に父が第3回十字軍の途上で没すると、ハインリヒが跡を継いだ。同年11月にシチリア王グリエルモ2世が亡くなったが、反ローマ帝国派の廷臣らは12月にレッチェ伯タンクレーディを王に擁立した。しかも亡命先から帰国したハインリヒ獅子公への対処に追われ、ハインリヒがイタリアへ向かえたのは1191年1月になってからだった。

1191年4月、夫妻はローマで教皇ケレスティヌス3世から皇帝・皇妃として戴冠された。だが、ナポリの包囲は疫病で軍が大きな被害を受けたうえ、ドイツで獅子公が再び挙兵したため、包囲を解いて帰国せざるをえなかった。サレルノに残されたコンスタンツェはタンクレーディに引き渡され、教皇の仲介で解放された。このころ、反シュタウフェン陣営の有力な後ろ盾であるイングランド王リチャード1世が、第3回十字軍の帰途にオーストリア公レオポルト5世に捕らえられる事件が起きた。身柄はハインリヒに引き渡され、銀15万マルクと引き換えに釈放されて、その身代金が再度の南イタリア遠征の軍費となった。

1194年には獅子公と講和し、5月に南イタリアへ出発した。パレルモは9月に無血開城し、12月25日にハインリヒはシチリア王に即位した。この際に多数の貴族が処刑・投獄され、幼いグリエルモ3世は視力を奪われて幽閉されたと伝わる。翌日、コンスタンツェがイェージで息子フリードリヒを産んだ。ハインリヒはその子に帝位を世襲させようとし、1196年のヴュルツブルクの帝国議会では、諸侯に相続権を認める代わりに選挙権を放棄させる計画を提案したが、ケルン大司教アドルフの猛反対で失敗した。1195年のバーリの宮廷会議で十字軍への参加を約束し、教会との関係改善も図っていたが、教皇庁との交渉は行き詰まった。それでも弟のシュヴァーベン公フィリップらの働きかけにより、1196年12月のフランクフルトの帝国議会で、ようやくフリードリヒがローマ王に選出された。

その後シチリアで起きたドイツ人支配への反乱を鎮めたが、再び反乱が起き、1197年9月28日、鎮圧の準備の途中でマラリア(あるいは赤痢)にかかって病没した。死に際して、妻コンスタンツェを幼い息子の摂政とするよう遺言した。皇帝によるイタリア半島統一は、この早すぎる死で水泡に帰した。

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